2011_04
23
(Sat)21:41

法然上人の大師号について ―数々の大師号のナゾ

さて、昨日の続きです。

法然上人のお師匠様である善導様を
「善導大師」
とお呼びしたのは、
私が本を書きました江戸時代の傑僧・忍澂上人が最初だった、というところまでお話しましたね。

さて、善導様の一〇〇〇年忌を迎えるに当たって、
その偉大さを讃えるための尊称として用いられた
「大師」という呼び名。
これが、浄土宗の門人みんなにピッタリと来たのです。

「そうだ!やっぱり、あれほどのお方なのだから、“大師”でお呼びしなくっちゃ。」

そうなると、です。善導大師以上に大切な、
我らが法然上人も、より相応しい尊称を!

なんでも、「上人」ということば。
悪くはないのですが、
「隠遁者」という意味があるらしく、
やっぱり、ひとつの宗派を背負って立つ、開祖様の尊称としては、
なんか、もひとつ、ものたらん、っちゅうか・・・

いや、やっぱり「大師号」やで。

といった感じでした。

しかしです。

日本では「大師号」はちとややこしくて、
天皇から頂戴せねば、勝手には名乗れないのです。

他の宗派の開祖様たちもみんなもらってる。
うちらももらわんと!

実は、
そういう動きは江戸時代以前からあったのです。
これは、やはり浄土宗が“寓宗(かたわらの宗派。オマケの宗派、といった意味)”呼ばわりされていた境遇から、
ちょっとづつ勢いをつけて来た時代背景と呼応しているようです。
しかし、なかなか法然上人の「大師号」は実現しません。

そうして、江戸時代を迎えるのです。

浄土宗は徳川家の菩提寺として、メキメキと大きくなってゆきます。
もちろん、政治力だけではなくって、
忍澂上人はじめとする数々の傑僧たちが輩出して、
法然上人のみ教えも、深く掘り下げられて行きます。

そうした、内実ともに充実してきた時に向かえた善導大師一〇〇〇年忌。
善導様に「大師号」ならば、法然上人にも「大師号」を!

そうした流れの盛り上がりがあったのです。

ちなみに、善導に「大師」を認めたのは徳川四代将軍家綱。
ですから、法然上人の「大師号」も、将軍様から授かればよい!
しかも、五代将軍は勉強熱心。
法然上人のみ教えの奥深さを、ご自身がよくご存知である。

というわけで、ついに元禄10年(1697)正月18日。
法然上人滅後486年目にして、ようやく
「円光大師」
というお名前を戴いたのでした。
そうそう、いくら将軍様がプッシュしてくれたからって、
お授けするのはあくまで天皇です。
当時は東山天皇。御年22歳であられました。
綱吉は51歳でしたから、
おそらくは圧倒的に綱吉の意思が反映されたものと思えますが。

そしてさらに。その15年後に迎えたのが、
今度は法然上人の500回忌。
この記念すべき年に、
やはり追加で「大師号」がもらえないか、と非常に運動があったのでしょう。
すでに東山天皇も綱吉もこの世を去っていたのですが、
六代将軍家宣(49歳)の強力な力添えがあったのでしょう、
中御門天皇(なんと9才!実際には祖父の霊元上皇が摂政をおこなっていました)より、
二番目の大師号
「東漸大師」
(ようやく東のはてである日本に、浄土教をもたらしたお方、といった意味でしょうか)
の尊称を戴いたのでした。

そして、なんと以降50年ごとに時の天皇から、新たな大師号を戴き続けているのです・・・。

第三「慧成大師」(桃園天皇より・1761年・550回忌)

第四「弘覚大師」(光格天皇より・1811年・600回忌)←お名前と同じ「コウカク」という音です。

第五「慈教大師」(孝明天皇より・1861年・650回忌)

第六「明照大師」(明治天皇より・1911年・700回忌)←「明治」の一文字を戴いています。

第七「和順大師」(昭和天皇より・1961年・750回忌)←「昭和」の一文字を戴いています。


そして、つい先日。ブログにも書きましたが、
とうとう第八番目の大師号「法爾大師」をば、
今上天皇より戴いたのでした。

おお、もったいなや。ありがたや。

合計八つの大師号。
これだけ大師号をお持ちのお方は、
名だたる銘僧方の中にも、いらっしゃいません。

このことを、奢るのではなく、誇るのではなく、
ますます法然上人のみ心を汲むべく、
そのお優しい人柄を我がものとするべく、
宗祖の教えを学ぶ決意を新たにする機会へと
しなければなりません。

それこそが、法然上人から願われている
弟子の在り方に違いないのですから。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
合掌。
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2011_04
22
(Fri)22:26

法然上人の大師号について ―そのはじまりの前に

皆さま、お久しぶりです。
震災以来、ほぼ自粛しておりましたこのブログですが(ノリがおばかですので)、
来週の4月28日以降から、ボチボチ再開しようかな、と思っております。
この日は、震災から四十九日にあたるんですね。
まだ、自粛しているべきなんですが、
やはり法然上人の八〇〇回遠忌がこの4月25日と目前ですので、
その前にこの記事だけは書いておこう、と思った次第です。

ええっと、法然上人の命日だけ「御忌(ぎょき)」と呼ぶことが天皇から許されている、という話はしましたね。

それから、法然上人だけが八つもの大師号を歴代天皇から賜っている、ということも紹介しました。
しかし、その理由はわかりませんでした。

今回は、記念すべき第一回目の大師号を戴くこととなった経緯について、調べがつきましたので紹介しておきます。

初めて戴いた大師号は、

「円光大師」。

「まどかな光」
すなわち、円満なお人柄の法然上人の輝きを称えられたお名前でしょうか。
この名を下さるのに尽力されたのは、なにを隠そう徳川五代将軍綱吉公なのです。
公は、たいへん熱心な浄土宗徒でした。特に学問に熱心だったようです。
(そのほか、能楽にもたいへん熱心で、毎月のように能・狂言を行なっていました。本人も、大名たちも演じたそうです。)
五十年来行なわれていなかった僧侶たちの学問問答「論議(ろんぎ)」を、
江戸城へ二十数名の僧たちを召して毎年行い、
また増上寺も会場として、

法然上人のみ教えに対しての理解を深められたそうです。

しかし、なぜそれらが「大師号」へとつながったのか?

これは、我が浄土宗門の悲願であったのです。


時を遡ります。

延宝八年(1680)は、法然上人の思想・信念上の“真の師”善導大師の一〇〇〇年忌でした。
善導以前に阿弥陀仏への信仰をまっすぐに深く受け止めた者はなく、善導以降にその信仰の深さを乗り越えた者はいない、と言われるお方です。
この一〇〇〇年忌に向けて、10年ほども前から、様々に善導を称える機運が高まりました。
浄瑠璃の演目として「善導記」という話が作られ、
あの近松門左衛門が「念仏往生記」「一心二河白道」などの関連演目も書き上げ、たいへん好評を博したそうです。

ただし、「善導」に対する尊称が、実は定まっていなかったそうです。
いわく、
「善導和尚」。
「善導阿闍利」。
「善導禅師」。

うーん、なんかイマイチ偉大さが伝わってこない。

そんななかで、我らが忍澂上人が伝記を書くのです。
その名も、
「善導大師別伝簒註(ぜんどうだいしべつでんさんちゅう)」!
そう、初めて
善導「大師」
という尊称が用いられるのです。

一〇〇〇年忌を迎えるに当たって、我らが師の師、
善導さまは、
「善導大師」と呼ばれるようになったのです!


ちょっと長くなりすぎるので、いったん筆を置きますね。

2011_03
17
(Thu)22:17

法然上人、八番目の大師号を今上天皇より奉戴する!

地震の慌ただしさの最中ではありますが
昨日3月16日、今上天皇より「法爾」の二字を、新たな大師号として戴きました!
今年、800回遠忌を迎える法然上人へと、浄土宗総本山・知恩院が賜ったのです。

法然上人 大師号の奉戴について

日本の歴史上の偉大なお坊様方は、天皇より“大師号”という、栄誉あるお名前を戴いている方が多いのです。
→こちら

それにしても、八つも大師号を戴いているお方はありませんよ!
(黄檗宗の隠元禅師さまが、大師号を二つお持ちですね。)

どうして、法然上人だけ八つも大師号があるの?
どうして、今回ももらえたの?

残念ながら、私にはよくわからないのです。
もしかすると、案外政治的な理由だったのかもしれませんが。
でも、
私は、法然上人のお人柄の円満さや
その御教えが文字通り万人に開かれていたということなどが、
今でも
日本国民の素養を養い続けているからこそ
今回も大師号が戴けたのではないか、と思っています。

浄土宗は、普段なら、お祭り騒ぎで喜んでいる場面なんですよ!
しかし、この震災。
しかも、陛下から国民へ、震災を労わるお言葉が発信された、まさにその日に
「法爾」の二文字を賜ったのでした。
「ほうに」。
そう、恐らくは
「自然法爾(じねんほうに)」から採られたのでしょうね。
含蓄の深い言葉ですが、あえて簡単に訳すならば、
「すべてあるがままに Let it be」
でしょうか。

(自分があるべきあり方であれば)法もその通りに。
「法」すなわち、「阿弥陀様のお救い」です。

「念仏を申せば、救われる。」

とってもシンプルな、“真理”です。

あるがままであれば、あるがままに救われる。
誰もが、平等に、救われる。
(たとえ、信心がなくっても!修行なんて出来なくっても!罪深い者でも!)

私たち日本人の寛容さ、感謝のこころ、「おかげさま」。
当たりの柔らかい人柄は、まさに法然上人の徳育の賜物なのではないか、と
独りよがりに愚考しているのです。

日本人の穏やかさを、まとまり・団結のよさを、人々に教えて導いて来られたのは、
法然上人に違いない!

だからこそ
また大師号が戴けたのだ!と。




2011_02
27
(Sun)21:03

法然上人のうたを歌いました。

今日は旧暦の1月25日。
先日からお話している通り、
ちょうど800年前、浄土宗を開かれました法然上人が極楽へと御往生なされました。

万人に開かれたお救いを、多くの人々にお伝えされたんですね。
「南無阿弥陀仏」
この言葉には、
「極楽へと往生させて下さい!お助け下さい!」
という〈願い〉と、
その極楽へ往くための〈修行(方法)〉
とが籠められているんです。

いいですか?
まず、仏教は学問ではありません。
哲学でもありません。

もちろん、両方の要素を含んではいますが、
それが目的なのではありません。

お釈迦様の「毒矢のたとえ」
毒矢が刺さった時に、
大事なのは毒の種類を分析することでもなく、
矢の飛んできた方向を調べるのでもなく、
まずは
矢を抜くこと
ですよね。

まずは行動、まずは〈修行〉なんです。
どんなに御託を並べても、
なにもしなきゃ、なにも始まらない。

でもね、
ハードルの高い〈修行〉もいっぱいあるんです。
「煩悩を断て」
「心を澄ませ」
そのほか、あれはいけない、これはいけない、などなど。

でも、なによりも大事なのは、
仏様と向き合うこと。
どんなにおろかな、ダメダメ人間でも(最近では、「残念な人」って言うのかな?)
優しくお救い下さる、あたたかくお導き下さる仏様を、
まずは信じて、お敬いして、頼って、すがって、お願いして、助けてもらおうとすること。

法然上人がおっしゃったのは、たったこれだけ。
でも、たったこれだけのことを、
やるのとやらないのとでは、雲泥の差なんです。

電話番号があります。
電話をかければ、必ず通じます。

“そんなの、知ってるよ!”

でも、かけた人は必ず通じるけど、
かけない人は絶対に通じない。

だから、法然上人は、みんなに電話をかけるようにお勧めされたのです。

「疑いながらでも、念仏すれば往生する」
「眠くなったら、眠りから覚めてから、念仏すればよい」
これ、徒然草にも書かれている、法然上人の素晴らしさです。
人間が一番エライ世界にいると、どっちを向いてるのかわからなくなる。
仏様と一緒の世界にいれば、どちらを向くべきかが見えて来る。

子どもだけの世界では、きちんと大事なことをおそわることは出来ないでしょう。
もしくは、たいへん時間をかけた、遠回りになってしまいます。

大人もいる世界でなければ、子どもたちはどちらに向かえばよいのかも、わからないものなのです。

というわけで、
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀様、お助け下さい!)
とお唱えすることが、
まっすぐ仏様に向き合う、一番の方法なのです。


他の宗派の修行も素晴らしいですよ!
でも、「ただひたすら仏様に向き合う修行」では、念仏よりも勝れた(しかも誰にでも出来る)ものは、
ないでしょう。


最近知り合ったお坊様たちが、今日をめがけて八日間、ずっと念仏申してます。
残念ながら参加出来ませんでしたので、
(今度、月例の別時念仏会に行こうかな…)
今日は自分なりに朝のお勤めで
「法然上人頌」(佐藤春夫作詞)を歌わせて頂きました。
これは、ちょうど今から50年前、法然上人の750回御遠忌のときに作られた曲です。

今日はマジメだったでしょ?
忍澂上人のお導きで、法然上人の御忌を、
心から尊くお祀り致したく存じ上げるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…
合掌。
2011_02
26
(Sat)18:54

なぜ、浄土宗の法然上人だけ、「御忌(ぎょき)」と呼ぶのを許されたのか?

((ご注意!今回は、やけに長文です!))

というわけで、
…なんだっけ?

あ、そうそう、なんで法然上人の御命日だけ「御忌(ぎょき)」って言うことが許されたのか、でしたね。

はっきり言うとですね、

「よくわかんない」

なーんや、それ!

いやいや、まあまあ。
あんまりね、勝手な推測をしたり顔で語るのも気が引けるってなもんで。

まずですね、世相&仏教の宗派の勢力の情勢。

応仁の乱。
まあ、ざっくり言うと、足利将軍家の家督争いプラスもろもろのおもわく。

京都全土が焼け野原。

旧権力だった公家(貴族)たちは離散。どこかへ逃げちゃう。

というわけで、天皇家もかなり衰退されていました。お金、入って来ませんからね。
それに、権力の実権そのものも、かなり制限されていたでしょう。

かわって、新興勢力の拡大。(戦国時代の夜明け前)
戦乱の兵隊・足軽たちが徒党を組んで悪事を働くようになる。

足利将軍家が盛りたてた仏教の宗派は、断然禅宗です。
金閣寺・銀閣寺
知ってる?
禅宗のなかでも、「臨済宗」だよ。
臨済宗は、立派な本山がいっぱいありまして、
ランキングでナンバー5までを決めちゃった。というか、争った!?
いわゆる「五山」京都五山、鎌倉五山ってやつね。

また、地方の一向宗(今でいう浄土真宗)は一揆を起こす。(地方の民衆が力を蓄えていたことの証し)
京都の町衆は、
祇園祭(厄病ばらいの神様のお祭り。社会の混乱は、悪霊のばっこと考えたのでしょうね)と
法華信仰(現世を浄土に改変しようとする)で社会不安を乗り越えようとする。

当時は、まだまだ「浄土宗」はですね、
諸宗派の「寓宗(ぐうしゅう)」扱いだったんです。つまり、オマケ扱い。
まだ一人前として認め切ってもらってなかったの。

そんな浄土宗と、
だんだん実権力を失っていく、金銭面でも困窮している朝廷とが、
ウマが合ったんでしょうね。
後土御門天皇のころから、
「苦しいこの世を捨てて、すばらしい極楽へ往生したい!」
という願いからか、浄土宗の僧侶が朝廷に呼ばれて、大人気!になるんです。
最初のころは、西山派の浄土宗が中心なんですけど、
後柏原天皇のころは、今の知恩院派の浄土宗(鎮西派といいます)が中心に。

それでですね、後柏原天皇のときには、実は浄土宗の「総本山」は決まってなかったんですよ!
たびたび百萬回の念仏を申す法要で疫病を鎮めていた、その名も「百萬遍・知恩寺」と、
応仁の乱で燃えちゃって、メキメキと復興していた「知恩院」。
このふたつのお寺が本家争いをしていたんですねー、実は。
「百萬遍」さんは、法然上人のそばにずっと仕えておられた源智上人という方が建てたお寺。
かたや「知恩院」は、法然上人が晩年住まわれて、お亡くなりになられたところ。

まあ、由緒からすれば、だんぜん知恩院なんでしょうけど、
ただね、そのころは百萬遍のほうが、勢いがよかった!
さらに、焼けてしまった知恩院を復興するための僧侶も、百萬遍から何人もいってるんです!
だからねえ、百萬遍としては、
「うちこそが浄土宗のなかでも、一番勢いがあるよってに、一番のお寺やでー!」
といった自負があったんでしょうね。
だって、ほら、まだ浄土宗はいっぱしの宗派として世間に認められる前でしたから。
なんとなくばらけたそれぞれのお寺を、束ね上げることが、ちゃんと一宗として認められる条件、みたいなところもあったんでしょうね。

ところがです。知恩院も、優秀なお坊様に恵まれて、メキメキと復興するんですね。そんな時分の話です。
当時の後柏原天皇も、大変「浄土宗の法然上人のみ教え」に帰依しておられた。

天皇は、国を治める責任があるんです。
そして、国が乱れるのは、己が不徳の致すところ。
つまり、御自身の前世からの罪の根っこがとっても深いんだ、と、
深く反省して、嘆いておられた。

ところが、法然上人のお教えくださる阿弥陀仏様とは、
いかに罪深い者でも、
念仏さえ申せば、必ずお救い下さる、とのこと。
本当に、真面目で罪の意識の深いお方であればあるほど、
有り難いみ教えなんですよ!!

ところがです。
肝心の浄土宗の立派なお寺が、“一番争い”をしている。
いかに天皇のお諌めがあっても、なかなか言うことを聞かない。
ふたつのお寺の争いに手を焼いておられたのです。

というわけで。
ここからはあくまでワタシメの推測に過ぎませんがね。
後柏原天皇は、この争いの決着をつけるべく、
知恩院に法然上人の命日忌の法要を毎年七日間おこなうことをお命じになって、
知恩院を「総本山」とする後押しをされたんではないかなあ、と。
(七日間というのはですねえ、かなり気合の入った法要のパターンなんです。
正月に宮中と東寺で行われている“お正月の法要”も、七日間。これらを、古来「オコナイ」と呼んできました)

もちろん、
天皇ご自身が法然上人のみ教えに救われて、
「法然上人こそ、我が日本の国民をお救いになられた偉大なる上人だ!」
との想いもおありだったんだと思います。

だから、大永4年にみことのりを出されたんです。

「知恩院は、浄土宗の根本道場であり、宗祖入滅の霊跡であるから、毎年7日間、ここで御忌を勤めよ」と。
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