2011_12
07
(Wed)21:25

明日は何の日?成道会でーす!  『樹下燦々』

ええっと、空手の「成道会」さんのことではありませんよ。

われらがスーパースター・お釈迦様が覚醒した日!
うーん、バリバリバリって、なんかちゃう感じやけど、
なにはともあれ、お覚りを開かれた日。
ブッダとなられた日。
ああ、なんでみんな大騒ぎせんのやろ?というくらい、スペシャリーな日なんですう!

でまあ、ワタシメ学生時代に合唱団におりまして、
このお釈迦様の覚りを開かれた様子を表現した合唱曲を歌わせて頂きました。

その名も、『樹下燦々』。

あーいー、さんさんとー♪

違うって!
落ち着いた感じの合唱団様が
この曲を歌っておられる動画がありましたので、リンクを貼らせて頂きます。
ご興味のある方は、どうぞ。
樹下燦々1
樹下燦々2

合わせて、20分弱くらいの曲です。

ソプラノのソロ、まじめ―な感じで歌っておられますが、
お釈迦様を誘惑する悪魔の娘役です。
そしてそれをはねつける若きお釈迦様。(テナー)
そして悪魔の襲来・攻撃
それらをすべて打ち砕き、天地の神々が勢ぞろいしてほめたたえる・・・!

そんな感じの内容なんですっ!!

学生時代は、なーんもわかってなかったよなぁ・・・。
ついでに、自分が坊主になるなんて、思ってもいなかったなァ・・・。

いろいろと感慨深い夜でありんす。


ついでと言っては何ですが、
もう一曲、ご紹介しておきたい曲が。
ずえんぜん、仏教とは関係ありませんが。

FRYING DUTCHMAN 『humanERROR』

現代の“原発神話”の崩壊、その向こう側への魂の叫び、です。
これも17分と長めですが、よかったら、是非聴いて下さい!
もう、何回聞いても最後には泣いているでありんす・・・。
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2011_01
13
(Thu)08:00

打ち出の小槌って、イイよね! その2

ハイ、昨日の続きでーす!

さらにですよ。
「稲」は実だけじゃない。
その茎もじゅうぶん役に立つんですよ。
あ、「藁」と言いますがね。(←知ってるよッ!!)

そこで登場するのが、「打ち出の木槌」。
このマジカル・アイテムでトントントンと打てば、アラ不思議!
食べものだけでなく、いろんな道具も出て来るのでーす!
わらじ、みの、縄。モチのロン、米俵も
生活に必要な道具の数々が、どんどん生み出せるのです!

藁打ち」を体験したこともなくてお恥ずかしいですが、
実際はかなり熟練と根気を要する、地味な作業だそうです。
大変な作業を、時間のかかる作業を、
神サマだったら、ニコニコ笑ってアラ不思議、あっという間にやっちゃうんじゃない!?
そうそう、ぜってーやっちゃえるよ!
おー!やれやれー!
(また脳内低知能化が進んでる…)
みたいなノリで、
ハイ!
こわもての大黒様も、
いつの間にやらあの福々しいお顔に~

初期のころの大黒様の持ち物は、大きな袋に(これには食べものが入っているわけです)、
「宝棒」だったそうです。
これって、
「木槌(トンカチ型と区別するために、「横槌」と呼ばれます)」
とかたちが似てると思いませんか?

この「横槌」が、定形化する流れのなかで、いちいち説明の要らない「トンカチ型」になって、
さらに貨幣社会に突入するなかでみんなが食べものだけでなく「大判小判」も望むようになって、
ご都合のよいマジック・アイテム「打ち出の小槌」へと変形していったのではないか、と。

ちなみに
大黒様の御神徳は、
商売で儲けるにしても、その過程を大切にされて、社会のためになるようなことでなければ、
力をお貸し頂けない、と聞いたことがあります。

神様も時代にあわせて、
ちゃんと私たちのニーズに合わせてヴァージョンアップしてくださっているそうなのですが、
やはり、本質までさかのぼって、謙虚になって
“我が望み=欲望”と向き合ってこそ、
本当に正しい“祈り”をすることができるのではないか、と。

お、最後はなんだかマジメになっちゃったな。
2011_01
12
(Wed)06:45

打ち出の小槌って、イイよね! その1

このブログを訪れてくださった皆さま、ありがとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げる次第に御座います。

さて、新年も明けまして、長谷寺も忙しい日々が続きます。
七福神巡りで、当山の大黒天様をお参りされる方も多いのですが、
あの大黒様の持ち物の「打ち出の小槌」について、好き勝手に考えてみようかと思います。

あの、なんだか忙しくってバタバタしちゃっているので、
ちゃんとウラを取ってないので、あまり真に受けないで読んでくださいね。
(どなたか、ウラを取れたら教えてください)

まず、何で「小槌」何でしょうかね?
けっこう、デカい「小槌」をお持ちの大黒様をよく見かけますが…。
(ていうか、
少なくともちんまりとしたミニハンマーを片手にしておられる尊像にはお目にかかったことがないのですが!?
この点、ご存じの方情報お願いします!)

また、そもそも「打ち出」ってなに!?
よもやパチンコじゃあるまいし、打ったらお宝が出て来るなんて、都合よくね!?
ってゆうかあ、殴ったらホシ☆の飛び出るピコピコハンマーしか知らねーッスけど、マジで。
(…なんか、話し方の知性が下落していってないか…?)


とまあ、このような疑問からテキトーにこねくり回してみますとですね、
まず「こづち」ですが、「小槌」ならぬ「木槌」ではなかろうか、と。
「きづち」と読みますが、「こづち」とも読めますからね。
そしてです、「打ち出の木槌」とすると、見えてくる民具が、“藁打ちの木槌”。
これはですね、手ごろな長さの丸太の片側を細く削って、持ち手としたもの。

農耕民族である我が国では、何にもまして尊い作物は、「稲」でした。
(いや、これは過去形でなく、今でも「最重要の作物」に違いありません。)
そしてですね。
室町以降の貨幣社会以前はですね、
生活必需品は「買うもの」ではなく、「作りだすもの」だったわけですよ。
当たり前ですが。

さあ、だんだん見えてきましたね。
さっき、重要なキーワードがでてきましたが、気付きましたでしょうか?
そう、「福の神」について考える際に、重要な事は、「貨幣社会」。
その以前と以降で、福神の在り方は大きく変形するのです。

本質的に、福神のもたらす“豊かさ”とは、「食べもの」なんですよ。

―どうか、食べものにこまりませんように!!!

ダイエットしてる人には、もしかしたら耳が痛い?思いもつかない?のかもしれませんが、
今も昔も、私たちの幸せの根幹は、

ちゃんと食べてゆけるかどうか

ですよ!

そして、大黒天様は、
お坊さんが千人いても、食べ物に困らないように、お寺の台所にお祀りされたのです。

日本に来て、
合体!(まともな意味で)
された大国主神さまも、やはり「食べもの」の神。
さらに、日本人にとって、最重要な食べものは、さっき言ったでしょ。
そう、
お米。
だから、ダイコクさまは、ほら。
米俵の上に乗っているでしょ?
(米俵の上に乗っかるなんてトンデモナイ!?罰当たりな!?
でも、それが許される唯一の存在というのは、その実りをもたらす神サマ以外にないデショ!!)


…おーい。「打ち出の小槌」はどこにいっちゃった?

ふう。ご心配なく。
疲れちゃったので、また明日。
2010_12
30
(Thu)09:07

熊手の話 その2

さてさて、昨日の記事の言い残しです。

ちなみに、どうして熊手かって言うと、
まあ
「幸せをかき集めるから」
なんて説明されるみたいですが、
おそらくは
高砂の翁と媼(高砂と住吉の松の精霊)が持っている熊手にたどり着くのではないか、
と思われます。
老夫婦で、仲良く熊手でお掃除しているやつ。
いやいや、「掃除」やないで!
あれは、「松葉をかきあつめている」。

さあ、ピンと来なかった人。あなたが悪いんじゃありません。
ガスレンジのせいです。
あ、今ならIHのせい、かな?

戦後の経済成長の中でですね、
燃料革命がありまして、各家庭にガスが供給されるようになったんです。
(今、電力会社のIHに揺さぶりをかけられてますけど…)

それ以前はですね、
「かまど」ですよ!
そりゃ、焚き木をガンガンに燃やせればいいんでしょうけど。
普段の煮炊きに、
あんまり立派な「薪(まき)」をたくさん使えないでしょ?
そうなると、次に燃やすのが
「落ち葉」。
イチョウなんて最低やね、燃えへんし、くすぶるし。

もうおわかりですか?
そう、落ち葉の最高は、
「松葉」なんですよ!
ゴーゴー、メラメラ、燃える燃える。

「おお、すごい勢いで萌えだしよったで!」(←「燃えだしよったで!」だろッ!)

だからね、
熊手は「生活に直結する財産をかき集める道具」として、
呪物化されていったんだと思います。

そこに、集めたいモノを装飾し、願いを叶えてくれる縁起物まで盛り込んで…
(「縁起物」って、まさに“感応呪術”そのもの!
よく
“仏教でいう縁起と、日本の「縁起物」とはかけ離れている”
と眉をしかめる方がいらっしゃいますが、
私はアリだと思います!
だって、「智」に立って「情」と「意」に共感出来ないようでは、
円満な人間存在にたどり着けませんよ!)

そうだ、最後に、
熊手の買い方について詳しく紹介されているサイト様と、
熊手屋さんのサイトを紹介しておきます。
この熊手屋さんのサイトにあるパズル、調べ物を忘れてついつい遊んじゃった…
2010_12
29
(Wed)08:03

熊手の話 その1

おお、このままでは年が変わってしまうではないか!
というわけで(←どんなわけだよッ!)
この前のつづきでーす。(←なにも聞いてねえよッ!)
そうそう。だるまさんのお話はしたので、
今度は熊手の話でしたよね。(←だから、聞いてねえっつってんの!)

あの熊手。残念ながら、だんだん需要が減っているような感じがしないでもないですが…
とってもキッチュですよね!
そして、その構成要素は。

えびす大黒。
お多福。
目出「鯛」。
大判小判。
鶴亀に松竹梅。
打ち出の小づちに大入り袋に招き猫。
エトセトラ、etc.…。
おお、なんだか、めでたい縁起物のてんこ盛り!
そして、よくよく考えると、
とっても欲張りな感じなんですよね~!
ある意味、「俗物」のかたまり!?(ああ、ちょっとお叱りを受けそうな予感…)

いや、今言いたいのはですね、
大判小判がキラキラ輝いていたって、
俗なお願いごとを叶えてくれるマジックアイテムがいっぱい貼り付けてあるからって、
大いに結構!結構!(←なんかエラそうだな…)

まさに、これは
「俗、極まって聖」なる世界を出現させているモノではなかろうか、とおもうわけです。

「俗」と「聖」は表裏一体。
「俗」をとことん追究すると、かえって「聖」にたどり着く、というか、
たとえ「俗な願いごと」であっても、
その奥底に流れているものは、
やはり「大いなる神仏の意志」へと一脈通じるものがある、と思うのです。
(経済原理とは、そもそもが「経世済民」。
個人の欲望から始まっているとしても、トータルで誰かが誰かの為になっている、ということ。)

まずは、「神仏に手を合わせる」ということが一大事!肝心かなめ!
そこから、どれだけ我欲から離れるかは、それぞれの人の生き方だし、スタイルだし、
優劣の問題ではない!と思います。ただ単に、人生で何を究めるのか、という問題。
(信仰に没頭して、世俗をちゃんと渡っていくのがヘタな人もありますからね。)

仏様の目から見れば私たちは五十歩百歩だと思いますよ。
ただ、神仏からよそ見しているのと、
神仏へちゃんと手を合わせて拝んでいるのとでは、ずいぶん違う。
それが1分、1秒、1日、10年、と重なって来ると、ずいぶん違う。
だから、きっかけはどうであれ、「神仏に手を合わせる」という、
信心
を、日々養っていただければ、
この世だけでなく、
のちのちの世までも意味のある生き方へと繋がっていくんじゃないかなぁ、
と、年の瀬に愚考する次第です。

ちなみに、
「俗、極まって聖」
この反対もまた真なり、で、
たとえば
ウルトラバロック」と命名された南米の教会内部の装飾なんか、まさに
「聖、極まって俗」
といった趣です。
(またちょっとお叱りを受けそうだな…)
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