2014_02
07
(Fri)13:03

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の原典、よみやすい現代語訳~!

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、
原典があるんだって!
ツレのお坊様のブログに原文(←リンクはこちら)が紹介されていたんで、
ついつい現代語に翻訳してみました^^。

もともとは、ポール・ケラスというドイツ人のおっさんの書いた「蜘蛛の糸」らしい。
だれだ?それ?(←なんてもの知らず…!)
いやいや、ちょっと調べてみると、19世紀末にアメリカ在住で活躍された作家にして哲学者で、
東洋思想にも通じていた、とか。
その仏教的な教訓の短編集『カルマ』のなかの一編がこの『The Spider-web』というわけ。

この本を、当時の著名な日本人仏教者、鈴木大拙が『因果の小車』というタイトルで翻訳なさっておられまして、
今回はその古めかしい日本語訳をやわらかい現代語に訳しなおした、ってなあんばいでござんして…。

せやから、
原典の翻訳の翻訳
になるわけでんな!


というわけで、
ここに公開いたしまひょ!


小さなカルマの歯車:“蜘蛛の糸”の信心


慈悲深い僧侶が、
ていねいにマハードゥータ(大いなる白)の傷口を洗って清めていると、
かの盗賊は自らの罪を反省し始めた。

「わたしはあまりに多くの悪いことをして来た。
善いことなどひとつもしたことがないのだ。
わたしはどうやってこの罪から逃れられるのか。
〈我執〉という
“ひとつの妄念より噴き出して天までも溢れかえる罪の網”を。

わが〈カルマの報い〉は、
わたしを必ずや地獄へと連れて行くだろう。
〈カルマから解き放つ尊い御教え〉には、ついぞ巡り合えなかった」と。


そこで僧侶は語り始める。

「“善いおこないが善い結果を導き、
悪いおこないが悪い結果をもたらすこと”が
〈天の定められた道〉ですので、
あなたがこの世でなしたおこないの罪というものは、
必ずや巡り廻って来世に報いを与えることでしょう。

しかしだからと言って、絶望してしまってはいけません。

〈真実の御教え〉に帰依して、
〈我執〉という“妄念の草”を刈り、“根絶やし”に出来たならば、
やがて〈一切の劣情の想念〉や〈罪を犯すような欲望〉から離れることが出来るようになり、
ついには〈自分のため〉、〈人のため〉に十分な働きをすることができるようになるでしょう。


ここにひとつの例をお示しいたしましょう。

むかし、
カンダタ(白い睡蓮)という大盗賊がいました。

かれは自らの罪をまったく顧みることもなく死んでしまったので、
地獄へと堕ちてゆきます。
恐ろしい亡霊や殺人鬼の悪魔たちに日々、苦しめられて、
〈大いなる苦しみと大いなる悩みの淵〉へと沈められ続けるのです。

かれは〈7カルパ(302億4000万年)〉もの長きにわたって苦しみ続けましたが、
抜け出ることはできませんでした。


その時に、
〈ジャンブー樹の繁る大地〉に〈仏陀〉がお現れになられたのです。

“菩薩としての最期の人生”の中でついに
〈大覚(アヌッタラ・サムヤク・サムボーディ)〉の位への上昇を果たされたのです!

これこそまさに
“宇宙の始まりより前にも起こったことはなく、宇宙が滅んでからも起こることはないほどの出来事”でした。

〈六道輪廻の世界の千の集まりの、さらにその千の集まりの、さらにその千の集まりのありとあらゆる世界すべて〉が
〈仏陀の偉大なる光〉に照らされて輝き破られ、
〈決して光のさすはずもない地獄の苦しみの底の底〉にまで、
その〈尊い光〉は達したのでした。

それは、“一筋の細い糸のような光”ではありましたが、
〈カンダタはじめ地獄の亡者たち〉の上にも輝き渡ったのでした。

かれらの喜びようはたとえようもありません。
〈絶望〉しかなかったかれらが、
ふたたび自らに〈生命〉を取り戻し、
〈希望〉を胸に活動を始めたのでした。


カンダタは叫びます。
『“大いなる慈しみ、大いなる悲しみ”をお持ちの〈御仏〉よ!
願わくば、どうかわたくしにも憐れみをお垂れくださいませ!
わたしの苦悩は非常に大きなものです。
わたしは確かに罪を犯しました。
もしやり直せるのなら、
今度こそは〈正しい道〉を歩んでゆく心であります。
しかし
どうやってこの〈苦しみの世界〉から抜け出せばよいのかがわからないでいるのです。
〈世にも尊きお方〉よ、
願わくば、このわたくしを憐れみになってお救いくださいませ!』と。


〈仏陀〉はお考えになられます。

『たしかに、
“悪いおこないの者に悪い結果が訪れる”というのは〈“カルマの報い”という定理〉である。
“悪を働く者は、最後には滅ばなければならない”のだ。
しかし
〈最初から最後まで悪を貫き通して“悪の化身”となってしまうような者〉も、おりはしない。
そもそも、
そのような存在など“あり得ないもの”なのだから。

〈善いおこない〉こそが、〈生へとおもむく道〉である。
わたしたちの〈一つのことば、一つのおこない〉には終わりがあるが、
〈善いおこないの結果、進歩してゆくこと〉には終わりなどあるはずもない。
たとえ〈小さな一つの善〉であったとしても、
その内には新しい〈善のたね〉がある。
それは留まることなく育ち、成長してゆくであろう。

〈迷い苦しみの三つの世界〉を輪廻転生する間であっても、
〈自らの心を養うこと〉限りないものがあるはず。
最期には、
〈万(よろず)の悪〉を除き切って、
〈無上の覚り(ニルヴァーナ)の城〉へと至ることも出来るであろう』


ここへ思い至って、
〈御仏〉は
地獄の中で苦悩しているカンダタの熱烈なる望みを受け止めておっしゃられたのでした。


『カンダタよ。
汝はかつて、
“思いやりの優しさ”からおこないをしたことはなかったですか?
これがあれば、
汝にその報いが今また訪れて、汝自身をそこから救い出すことでしょう。

しかし見たところ汝は、
〈自らの罪のカルマにふさわしい報い〉を受けていて、
厳しく責め苦しまされているようです。
それらの苦しみによって〈我執〉からすっかり抜け出し、
“むさぼり・いかり・おろかさ”という〈恐ろしい三つの毒〉を洗い清めなければ、
たとえ〈永いカルパ〉を経ても、
〈苦しみからの解放〉へとたどり着くことは出来ないでしょう』


カンダタは黙ってしまいました。
かれは残酷な人間でしたので、
生まれついてから一つの善いことさえしたことがなかったので、
なんにも思いつかなかったのです。


しかし
〈真如の世界へ到り、真如の世界から戻って来たお方(タターガタ/仏陀)〉は
知らないことなどありませんでした。

この大盗賊の一生涯のおこないをすべて見てみると、
こういうことがあったのです。

かつて森の中で、
かれは小さな蜘蛛が地面でうごめいているのを見ました。
その時に、
『こんな小さな虫けら、害もないだろうから、踏み殺すのも残酷だな』
と一瞬、思ったのでした。


〈仏陀〉はカンダタの苦悩を見て〈慈悲の御心〉を起こされ、
“一本の蜘蛛の糸”をカンダタの元までお垂らしになります。
そしてその先で、
小さな蜘蛛にこう言わせたのです。

『この糸をたよりとして、昇って来なさい』と。

蜘蛛はすっと上にあがります。
カンダタはあわてて、力いっぱい蜘蛛の糸にすがりつきます。
そうすると、
不思議や不思議、糸は切れることもなく、次第に自分の体を宙へと吊り上げるではありませんか!


ところが途中から、
突然糸が震えて揺れます。

驚いて下の方を見ると、
かれの仲間である〈地獄の亡者たち〉が、
カンダタが吊りあげられるのを見て集まり、
自分も助かろうと昇り始めたのです!


カンダタはこれを見て言い知れぬ恐怖にとりつかれます。

『糸は細いのだ。
蜘蛛の糸だから、弱いだろう。
もともと、
吊り上げられている途中で切れてしまう危険もあるのだ。

それを、
あんなにも多くの者たちがすがりついているとなれば、
ますますそうなってしまう!』


ところがこの蜘蛛の糸はかれを吊り下げるには十分の強さがありました。
本当に不思議なことです。


カンダタは、
さっきまでは
“上へ行くこと”だけを心から望んでいたはずだったのに、
このことがあってからは、
下の方ばかりに心を奪われてしまいました。

〈御仏を信じ仰ぐ心〉さえ、
だんだんと乱れてきてしまったのです。

(こんな細い糸で、無数の人々を助けられるはずもない…!)と。

ひとたび疑いの念が生じると、
もはや恐怖の想いをとどめることが出来なくなってしまいます。

思わず
『来るな!来るな!この糸はわたしのものだ!』
と大声で絶叫するカンダタ。
その瞬間、
糸はたちまちにぷつりと切れて、
カンダタはまたもや奈落の底へと堕ちていったのでした」


・・・


「〈我執〉というみだりな想いが、
なおもカンダタの胸の内側にはわだかまっていたのです。

かれは
“上の方へと昇って〈仏法という正しい道〉の大地を踏みしめようと〈信心〉を定めること”の
〈不可思議なる力〉を
理解していなかったのです。

ほんとうに、
この〈信心〉という一念のか弱さは“蜘蛛の糸”のようだけれども、
果てしない数の生き物たちがすべて、
この“細き糸”にひかれてこそ、
〈苦しみから解き放たれる道〉へと到り着くのです。

だから、
“救われよう”とする生き物の数が多ければ多いほど、
『この細き糸こそ〈正しい道〉へと容易くたどり着く事が出来る方法なのだ』
と了解すればよかったのです。


ところが
ひとたび〈我執の念〉にとりつかれてしまって

『これはわたしのものだ。
この先にたどり着くであろう〈正しい道の福徳〉も、わたしひとりのものとするのだ』

などと想い誤ることがあれば、
“一縷の糸”はたちまちに切れてしまって
あなたも〈我執〉の巣へと戻り込んでしまうことでしょう。


つまりは、
〈我執の念〉こそが“滅び”そのものであり、
〈真理〉とは“生命”そのものなのです。

そもそも、
いったい〈地獄〉とはなんなのでしょうか?

〈地獄〉とは〈我執〉の別の呼び名であり、
〈すべてからの解放(ニルヴァーナ)〉とは〈正しい道を歩む生涯〉にほかならないのです」



僧侶の説法を聞き終わって、
瀕死の盗賊マハードゥータは静かに悲しんで言った。

「どうかわたしに蜘蛛の糸を手に取らせてください。
わたしは必ずや、
地獄の深い深い穴より抜け出してみせますから」
スポンサーサイト
2011_02
17
(Thu)00:31

慙恥の服は諸の荘厳に於いて最も第一と為す(ナニ?ようわからん…ですと?)

涅槃会、ホントはいろいろと書きたいこともあるのですが…
(なんせ、以前“絵解き漫才”なるものを考案して、『涅槃図』の絵解きもしましたからね!
他にも、大好きなお坊様の明恵上人の四座講式の時のエピソードとか…)
まあ、なんだか忙しいので、機会がありましたら、ってことでご勘弁を。

とりあえず、昨日ご紹介した『遺教経』のなかで、特にお気に入りのコトバを解説いたしましょう!
そのコトバとは・・・

慙恥の服は諸の荘厳に於いて最も第一と為す
(ざんちのふくはもろもろのしょうごんにおいてもっともだいいちとなす)

はあ~、しびれるナァ~。

はい、ついてこれないですよね、すみません。
普段はあんまり専門用語を使わないんですが、
この“一句”が好きなんで、ほかの言い回しにはできないんですぅ。

とりあえず、ことばの説明から。
まず、「慙恥・ざんち」ですが、これは「恥じ」です。
自分自身の犯した罪を恥じ、罪を生み出してしまう自分自身の心根を恥じる、ということ。

次に「荘厳」。これは「しょうごん」と読んで、
「飾り付け」という意味です。
通常は、お寺の本堂の内部の仏様の周りを飾る瓔珞(ようらく)(幡・はた、天蓋・てんがい、など)を指して、
「この本堂の仏様の荘厳は、立派やな~」
などといったニュアンスで使います。
ただし、ここでは「自分自身を厳かに飾ること」をあらわします。

あとは…そんなに難しいコトバはありませんよね!?
え!?でも意味がようワカラン…?

というわけで、もう少し具体的にお話し致しましょう。

「慙恥の服」
「服」というニュアンスがわかりにくいかもしれませんが、
これも一種のたとえでして、
“服を身にまとうように、つねに身につけるべきこと”といった意味合いなんですね。

私たちは、実は身につける衣装によって気分がけっこう変わるんですよね。
(コスチューム・プレイの好きな方ならよくわかるのでは!?)

まあ、「服」を着ない、というだけでずいぶん恥ずかしいと思うのですが、(そういうことじゃなくって)
「慙恥」という“自分の振る舞いのなかの罪を嗅ぎ取り、反省しようとするこころ”を、
つねに「服」のように身にまといなさい
といったところでしょうか。

「恥じを忘れずに」と直接的に言ってしまうより、
「恥じらい、というこころをつねに服をまとうように身につけていなければ、それこそが恥ずかしいことなのだ」
といったニュアンスが込められていながら、こんなにくどくない言い回し、といったところでしょうか。

「諸の荘厳」とは、
“自分自身を立派にさせる様々な功徳”のことです。
己にも他人にも厳しくストイックな人なら、“厳格な清潔さ”を身につけているでしょう。
ささいな苦しみにも目を留めて共感してくれるような人なら、“繊細な優しさ”を身につけているでしょう。
初対面の人の緊張を感じつつ、それを簡単にほぐせる人は、“誰をもなごませる朗らかさ”を身につけているでしょう。
それぞれの“荘厳”は、とても素晴らしいものです。
なぜならば、どれも“仏の道”にかなっているからです。
人の迷いを払い、目を開かせ、多くの人を救おうとするからです。

しかし、そのような数々の“荘厳”のなかでも、
「恥じらい」を持っている人の素晴らしさにはかなわない、というのです。
なぜならば、「犯した罪を恥じる」とは、「二度とあやまちを繰り返さない、という決意」へとつながってゆくからです。
また、「罪を犯してしまう自らの心根を恥じる」とは、「自分の至らなさをよく知っている」「深く自分の在り方を反省し続ける」すなわち、「少しでも自分を高めようと、すさまじく努力をし続ける」ということなのです。
もうおわかりいただけましたでしょうか。
「慙恥」によって、表に“慎み深さ”が滲み出るだけでなく、
まさにこの心に留まることによってのみ、いつまでも、どこまでも、向上してゆくことが出来るのです!

ですから、
この“内側の悪を滅ぼしつくそうとする”というベクトルと、
“一秒でも無駄にすることなく、少しでも上へと上昇しようとする”というベクトルを併せ持つ、
「慙恥の服」こそが、いかなる素晴らしい功徳による「荘厳」をも差し置いて、最上級でナンバーワン!というわけなんです。

おわかりいただけましたでしょうか。
あの、専門用語のカタマリみたいな言い回しでないと、全ての内容を、また端的に表現できないんですよ。

というわけで、最後にもう一度書きますね。
是非、味わってお読み下さい。


慙恥の服は諸の荘厳に於いて最も第一と為す
(ざんちのふくはもろもろのしょうごんにおいてもっともだいいちとなす)

はあ~、しびれるナァ~。





2011_02
08
(Tue)23:23

「あみだくじ」は、最初からお遊びだったのか!?

おお、そういえば、「あみだくじ」の話でしたよね。
語源を調べても、楽しそうな遊びのことしか出て来ないので、
ちょっと推測なのですが、書かせて頂きます。

まず、あみだくじの語源を、コピペ。(wikiより)

・あみだくじは、室町時代から行われていたが、
現在のあみだくじと違い、真ん中から外に向かって放射線状に人数分の線を書いて、それを引いたものであった。
そして、これが阿弥陀仏の後光に似ていたことから、この名がついた。
・もともとは、人数分の線を引き、一端にそれぞれ異なる金額を書いて隠し、各自が引き当てた金額を出させ、
集めた金で茶菓子などを買い、平等に分配する仕組みだった。

ええっと。なんだか楽しそうなんだけど。
まあ、今のあみだくじも“お遊び”だから、そうなのかもしんないけど。
だけど、なんだか釈然と来ない。

どうしてか。
“お遊び”のクジと、阿弥陀様とが、しっくり来ないんだな。

まずですねぇ。
“阿弥陀様の後光”といいますが、あの放射状の棒のタイプは、今でいう浄土真宗の方の阿弥陀様なんです!
ちょっと、資料ゼロで、フィーリングで書いてみたんですけど。
CA3F0003_convert_20110208231817.jpg

ふふ。まあ、「へただ。」という“気付き”は胸のうちにしまってもらって。
(あ!左右の手、上下反対か!?ま、いいや。)
このタイプの阿弥陀様を拝んでいたのは、室町時代だと、「一向宗」。
いわゆる「門徒」さん。(今でも真宗の人は門徒と言います。)

門徒さんたちが集まって、相談事をしているわけです。
「おい、今度の○○役、誰がやるんだ?」
「ここにいる者のなかから決めるしかねえ。」
「よし、誰がなっても、恨みっこなしだ。この籤は、それこそ阿弥陀様のお計らいだからな。」
そういって、人数分の籤を、まあるく紙に書き、「○○役」とどこかに書き入れて、
CA3F0004_convert_20110208231921.jpg


それを一人の手のひらでまったく見えなくしてしまってから、めいめいが籤の外側に名前を書き込む。
全員の名前を書き終えると、中央の手のひらを、えいやっ!と外す…!
CA3F0005_convert_20110208232002.jpg


「お…、俺が○○役だ…。」
「そうか、与一か…。よろしく頼むぞ。」
「阿弥陀様のお計らいだからな。恨みっこなしだぞ。」
「みんなで与一を助けるからな。頼んだぞ。」

ちょっと辛気臭いけど、おそらくはこんな感じで、
“阿弥陀仏の信仰者の集まりで、阿弥陀仏の意志の表れとしての籤”だったのが、
「阿弥陀籤」だったのではないかなあ、と。

これが、飲み会の幹事を決めるくらいの話ならいいのですが、
たとえば一揆のリーダーとか、
いわゆる“五人組”的な連帯保証仲間の重い役とか
(五人組自体は江戸期の制度ですが、類似のものは古代からありますゆえ)
そういう“負の歴史”がないと、
「阿弥陀様」のお名前を背負わせる重みが説明つかないんではないかな~、なんて、思っているのです。


最初から、お金集めのゲームじゃあ、ね。いくらなんでも、ふざけすぎだよ。

2011_01
15
(Sat)06:33

大黒様の正体、に関するサイト紹介。

前回、曲がりなりにも少しは大黒天様のことを調べましたが、
(「打ち出の小槌」中心に、ですが)
ちょっと慧眼開かれる想いだったサイト様がありましたので、紹介させて頂きます。

通常は、大黒天に関しては、前回もリンクを貼らせて頂いた
こちらの仏教美術屋さんのような解説が多いのですが、

「そもそも、大黒は天ではなく、明王である」
「マハーカーラに、戦闘系と福神系の二系統がある」
「踏みつけた神々の属性を、その上に立つ尊格が引き継ぐ」

と、今まで考えたこともなかった内容が語られています。
驚きながらも、「しかり、しかり。」と納得してしまった次第です。

おっと、そのサイト様、こちら

(この“踏みつけ思想”、いろいろと図像解釈のヒントになりますねぇ。
また考えたテキトーなことを、そのうちアップしますね。)
2010_09
26
(Sun)22:20

4分の1の経営者

ちょっと長文ですが、以前からコツコツ書いていたものをアップします。
今回はマジメなおはなし。

ある大手銀行で、不良債権の残務整理を担当されていた方の話。
不景気なご時世、倒産してしまう企業にお金を貸すことを止め、借金を返済してもらう仕事をしておられたそうだけど、(あまり詳しくないので、違ってたらごめんなさい)誰もが尻込みしそうな、大変な業務を通して見えて来たものがあるそうです。

借金を回収する、というのは、要はそれぞれの企業の社長(だった人)に銀行まで来てもらい、支払えるだけの借金を返してもらう、ということらしいのですが、その社長たちの態度にタイプがある、というのです。

まず、①怒鳴り込むタイプ。
「おどれの銀行がカネ貸さんかったから、ワシんとこの会社潰れてしもたやんけ!!」的な。あああ、たまらんなぁ…。
②残りの半分が、「大変お世話になりました」と言って、深々と頭を下げるタイプ。(おお…!やっぱり、経営者として、人の上に立つ人間の器を教えられます)
そして、③のタイプ。それは…
②のタイプのうちの半分、つまり全体のおよそ4分の1の元経営者は、希望を捨てていない、ということ。
倒産した企業の経営者は、財産はじめすべてを失っています。この、一切希望が見いだせない状況下で、なおも、希望の灯をともし続けている。希望の火を燃やし続けている。

「ほんま、お世話になりました。今はなんにもなくなってしまったけど、もういっぺん、一からやり直します。また、絶対に立ち直ってみせますよってに。」


皆さん、どう思いますか?身震いするほど、「人間って、素晴らしい!」と思いませんか?


この、3タイプのパーセンテージは、一般的な人間のタイプのパーセンテージではありません。
「経営者」という、善くも悪くも、大勢の人間の生活や幸福を面倒見ることを買って出た、他の人よりも馬力(野心?)のある人間たちの、タイプ分けなんです。

ここには、いろいろと含みがありますが、皆さん、ご自分で考えてみて下さいね。

さて、話を進めます。
不幸のどん底でも、決して希望を捨てない経営者。
そこには、魂が震えるほどの「人間の尊厳」が聳え立っていますが、きっと、それだけではない、と思うのです。
つまりは…

「神仏の加護」があるに違いない…!!

実は、往々にして、人の上に立つ人間は、いずれかの神仏にお参りを重ね、厚い加護を祈っていたりするのです。

逆に、「信心がない」と公言しているような方も、神仏の方から守って下さっている。(あの人は強運の持ち主だ、と言われるようなタイプ。)


ここで、気付く人もいらっしゃるでしょう。
「でも、神仏の加護があって倒産すんのか?」

もちろん神仏は目に見えないお守りを下さっておられますが、残念ながら、そういうこともあるでしょう。
しかし、です。
私たちの世界で言う、
「成功」や「失敗」とは全然違う次元で、
「お導き」が働いている、としたら…
今あるこのどん底な状況すら、
この私に何かを知らせるためだったとしたら…!

実際、どうなのかは、
残念ながら直接神仏からお伺い出来る器ではない私にはわかりません。
しかし、
ほら、
四分の一の人は、
這い上がっていくでしょう?
感謝と、
情熱をもって。
そこに
答えが出ているとは思いませんか?
»
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。