2011_11
29
(Tue)06:14

第九の歌詞、意訳バージョン。

さて、過去に合唱をやっておりましたワタシメは、3回ほど『第九』を歌ったことがあるのですが、
奇しくも、すべて年末ではありませんでした。
そもそもが、『第九』は年末とは関係ない曲ですもんね。
「年末と言えば第九」というあのお約束は、日本ローカル。
内容的にはむしろ春の歌だ、という話もありますが…。
西洋では、もちろん曲の存在はよく知られているんだけど、
それほど頻繁に演奏される曲目でもない、とか昔聞いたなァ。
ま、日本ほどではない、という意味かもしれませんがね。

実際、ちょっと特別視されるような曲なんでしょうか。
一昔前の、ベルリンの壁の崩壊の時に歌われましたよね、確か。
あの時は、
歌詞の「Freude(喜び)」を「 Freiheit(自由)」にしたんですよね。
でもほんとは、シラーの原詩が『自由賛歌』というタイトルだったとか。
くわしくはこちらのサイト様をご参照していただくとして、
この『第九』には、
フランス革命の理念の「自由、平等、博愛」が籠められているんですね。

そのころ、もう10年以上前に書いた意訳です。
前回の直訳と突き合わせると、どこをどう言い換えたか、などがわかるかな?



〈おお友よ!こんな“声”なのではない。
もっと快い、もっと喜びに満ちあふれた“歌声”を私たちに挙げさせておくれ!〉

〈真の喜び〉よ、“壮麗なる神々の煌めき”のごとき、“至福へと導く美しき乙女”のごとき〈喜び〉よ!
私たちは〈真の喜び〉に浸りつつ、その極みを通して〈天上の世界〉へと踏み至るのだ。

〈穏やかな、軽やかな喜び〉を手にいれし者は、
「個々の人間は〈一つ〉である」「全ての人間は〈兄弟〉である」と知るだろう。

“自分の内に〈一人の友〉〈真の自己〉を見出した者”、
“自然の奥底に〈大いなる母〉〈優美なる女性〉を見出した者”は、〈真の喜びの声〉を挙げよ!
そう、実際にはこの地球上において、「これが自分の魂だ」と云えるなら、それだけでよい。
それがどうしてもできない者は、泣きながら立ち去るしかすべはないのだ。

“心正しき者”も、“罪を犯した者”も、
全ての者が〈真の喜び〉に浴するのだ、〈大いなる自然の胸元〉に立ち帰ったならば。
そしてそこへは、
誰しもが“〈快いバラの花〉と〈苦痛を与えるトゲ〉に彩られた道”を通って到り着く。
この〈自然〉によって既に私たちは祝福されているのだ。
そして〈人類の罪を浄める、“死”を乗り越えた一人の友〉が私たちに与えられているのだ。
このことが〈真の喜び〉である!

〈生み殖える喜び〉ならば地を這う虫にも与えられている。
そして天使ケルビムは〈神の前に立ち、神を守るという栄誉〉、人には決して与えられていない〈喜び〉があるのだ!

ああ!
“夜空の無数の星々が実は一つ一つ燃え盛る〈太陽〉であり、それらが〈定められた美しい軌跡〉を駆け抜けてゆく”ように、
兄弟よ!〈喜び〉と共につき進め!
「自分自身の道」を、あたかも“英雄が勝利に向かって突き進む”かのように!

互いに抱き合おう、全ての人々よ!
私は、この地球の全てを祝福する!
地球上の全ての我が兄弟よ!
星々の果てのその彼方には、あの〈親愛なる父なる神〉がましますに違いないのだ!

自分自身がちっぽけに思えないか、我が人類よ?
〈全てに秩序を与えた創造の主〉を予感しないか、地球よ?
深く求めよ、〈万物の父なる神〉を、あの星々の遥か彼方に!

星々を超えて、〈神〉は必ずや、ましますのだから。



ちょっと硬いかな?とか、
ちょっとくせが強いかな?
とも思いますが、まあいいや。

あと、余談ですが、
ベートーヴェンは声楽作曲家ではなくて、器楽作曲家なので、
『第九』という曲には声楽的にはムチャな音幅の跳躍なんかがありますんで、
合唱初心者にはツライところなんかも、あります。
けっこう「誰でも歌える」みたいなノリがひとむかし前にはありましたけど。
最近はどうなんでしょうね。

次回は、テキトーに解説なんかをしてみようかなあ。
仏教じゃないけど。
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