2012_10
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(Wed)06:48

法然上人のご法語、一部公開!第二十二章「登山状」朝(あした)にひらくる栄花は

さあ、これで『登山状』のご紹介はおしまい。
法然上人のご法語、全31章分の原稿はすでにあるのですが、誰か出版してくれませんかね。

とりあえず、ラストです!



〇第22章  閻魔法王の問い

 それ、“朝(あした)にひらくる栄花(えいが)”は“夕べの風”に散りやすく、“夕べに結ぶ命露(めいろ)”は、“朝(あした)の日”に消えやすし。これを知らずして“つねに栄えん事”を思い、これを覚らずして“久しくあらん事”を思う。
しかる間、“〈無常〉の風”ひとたび吹きて、“〈有為(うい)〉の露(つゆ)”永く消えぬれば、これを曠野(こうや)にすて、これを遠き山におくる。屍(かばね)はついに苔の下にうずもれ、たましいは独り旅の空に迷う。妻子眷属は家にあれどもともなわず、七珍万宝(しっちんまんぼう)は蔵に満てれども益(えき)もなし。ただ身にしたがうものは“後悔の涙”なり。
ついに〈閻魔の庁〉にいたりぬれば、「罪の浅深(せんじん)」をさだめ、「業の軽重(きょうじゅう)」をかんがえらる。〈法王〉、罪人に問うていわく、「なんじ、〈仏法流布の世〉に生まれて、何ぞ修行せずしていたずらに帰り来たるや」と。その時には、われらいかが答えんとする。
すみやかに〈出要(しゅつよう)〉を求めて、むなしく〈三途〉にかえることなかれ。
『勅伝 第三十二巻』「登山状」より

 
そう、“朝に開いた栄華の花”も“夕べの風”には散りやすいもの。“夕べにひっそりと結んだ命の露”も、“昇り始めた朝日”のもとに消えやすいもの。
この理(ことわり)を知ろうともしないで「いつまでも栄えていたい」と望み、この理に目覚めずして「いつまでも命があるだろう」などと思い込むのだ。
そうこうするうちに、全てを滅ぼしてゆく“無常の風”がひとたび吹けば、〈憂いながら生きてきた命〉も永遠にこの世より消えてしまい、あとの我が身は“荒野”へと捨てられ、或いは“野辺の山”で焼かれることとなる。
屍はやがて“苔の下”に埋もれてゆき、魂が一人ぼっちで“冥途への旅の空”にさ迷うのだ。
妻も子も、手下たちも、家に大勢いたとしても連れて行くことは出来ない。貴重な宝の数々が蔵を満たしていても、それが何の役に立とうか。
ただ、我が身に従うものは「後悔の涙」ばかりなのだ。
そして死後、〈閻魔法王〉のもとにたどり着いた時には、〈己が罪の深さ浅さ〉を定められ、〈悪業の重さ軽さ〉を判断される。
〈閻魔法王〉は罪人たちにこう問いかけなさるだろう。
「おまえは幸いにして〈尊い仏法が広まる人の世〉に生まれたというのに、どうして何の修行もすることなしに、無意味に帰って来たのだ!」と。
その時に、我々は何と答えればよいのか。
速やかに〈輪廻を抜け出る道たる仏法〉を求めて、虚しく〈三途〉へと帰っていってはならない。


【解説】
「それ、あしたに開くる…」なんとも感動的な名文からはじまります。いきなりクライマックス!いや、もちろん第21章からのつながりで、こうなんですけど。この場合、「あした」って明日じゃないですよ!「朝」のこと。「ゆふべ」と対になってるんですね。
この時代、“夕べの風に散ってしまう栄華”とは、誰もが「平家一門の盛衰」を意識したことでしょう。“夕べに結ぶ命露”とは、その「栄華の上で踊り、散っていった数知れぬ者どもの命」…。これらの“国を挙げてのお祭り騒ぎの顛末”を眺めて、〈無常の想い〉にかられぬ者などなかったことでしょう。それをさらに推し進めるならば、「明日は我が身」。いつ、どうなるとも知れず、さりとてどうすることも出来ず…。このように、“己の死”を突きつけられた時に、何が役に立つというのでしょうか。“この世で貯めこんだ財産”も、“自分に仕えてくれた妻子、眷属”も、決して連れては行けない。“この世の栄華すべて”を剥ぎ取られた時に、果たして私に何が残るというのだろう?自省は深まってゆきます。そして極まるところは
「一生涯を無駄に過ごしてしまったのではないか。」
「閻魔さま」と言えば、今でこそ“子供に言うことを聞かせる時の方便(そしてそれすらも、もはや語り継がれない)”に過ぎなくなってしまっていますが、当時はこの信仰が喧伝され始めたばかり。〈死後の世界についての、最新のイメージ〉。〈唐から伝来し、新たにわかってきた恐ろしい裁きの実態〉。まさに、“人を踏みにじって生きて来た私たちの、最期の帳尻合わせの時”なのです。
その〈裁きの庭〉でこう聞かれる、というのです。
「〈仏法〉によって、お前たちの〈苦しみの世〉は解き明かされた。それから〈抜け出る道〉も示されていた。というのに、どうしてのこのことここにいるのだ!?せっかく人として生まれたというのに、何をしておったのだ!!」
雷おやじどころではありません。心臓バックンバックン、全身ビリビリ。ああ、どうしよう…。バカバカ、俺のバカ…。
「なーんて言われたら、どうする?」
はっ!そうか、俺、まだ死んでなかったんだ。よし、閻魔さまの前でちゃんと答えられるように、さっそく仏法におすがりしよう!
というのが、この段の顛末です。あ、もちろん〈仏法〉って、〈称名念仏〉のことですよ。このバヤイ。


栄花・えいが  栄華。社会的な地位が高くなり、栄えて時めいている様。
命露・めいろ  露のように消えてしまうはかない命。
無常の風・むじょうのかぜ  〈無常〉は仏教の真理で、「すべては留まることなく移ろいゆくということ」。この場合、“無常の風”とは“いやおうなく人を〈死〉へと運んでしまう風”といった意味合い。“冷厳な〈無常〉という真理”を、“風”に喩えている。
有為の露・ういのつゆ  〈有為〉は仏教の専門用語で、“因縁が縁り合わさって、形作られているもの=目に見える、ありとあらゆる存在(厳密には、私たちが存在していると思い込んでいるもの)”を指す。この場合、“有為の露”とは“たまたま縁り合わさって在る、私の命の露”つまり、“自らの存在、命”のこと。
曠野・こうや  何もなく広々とした野原。空虚さを象徴している。
遠き山・とおきやま  当時は人が死ぬと、“普段の生活の外”である村はずれの荒地や、遠く離れた山へと亡骸を葬った。京都の場合は化野(あだしの)や鳥辺山(とりべやま)など。
屍・かばね  死体のこと。
たましい  死ぬことで、肉体から離れてしまう人間存在の核心部。陰陽思想によれば、人のたましいは、さらに〈魂〉と〈魄〉に分かれ、“陽のたましい〈魂〉”は天へと昇り、“陰のたましい〈魄〉”は地へと散っていく、と考えられた。ここでの「たましい」とは前者の〈魂〉を指しているように思われる。
七珍万宝・しっちんまんぼう  「珍」という漢字には“めずらしく美しい宝”という意味がある。“七つの宝、万の宝”という意味。
閻魔の庁・えんまのちょう  閻魔大王の法廷。“死後、自らの罪が裁かれる場所”という。
法王・ほうおう  閻魔大王のこと。閻魔法王。仏典によれば、「閻魔Yama」とは人類の最初の死者で、後から続く死者たちと“平和な死者の国”を築いていたが、やがて“悪人の死者”によりその平和が乱され始めて、以降、〈死者の善人悪人の選別をする立場〉となった、という。“死者の罪の記された〈閻魔帳〉”を持ち、罪人の生前の悪業は〈浄玻璃の鏡〉に写し出され、六道のどこに行くかの裁きがなされるという。中国の裁判長のいでたちで、恐ろしい顔をして描かれる。 面白いのが、“裁きの庭”はすでに〈地獄〉に近い“地中”にあるが、もともとの“死者の楽園”、「夜摩天」という天国は、須弥山の上空に、別の世界として存在していること。
出要・しゅつよう  “出世間のための肝要”つまりは、“苦しみの輪廻から抜け出るための、肝心かなめとなること=〈仏法〉”のこと。

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