2014_02
22
(Sat)11:01

百万塔陀羅尼、解説しまーす! その3 無垢浄光根本陀羅尼の分析で、きづいたこと。

この百万塔陀羅尼。

やっぱり、「世界最古の印刷物」の画像抜きではお話にならない、と思って、ちょっと画像も掲載させて頂きました。

「国立国会図書館貴重書展:展示No.2」からの貸し出しです。。

そして、前々回の記事に画像を追加し、
あのチンプンカンプンな漢字のところも少し整理しました。

陀羅尼のなかの小さな文字ですが、あれは
“こっちの文字でもええよ”といったところ。言い換え可能の部分。
(正確には、「より正確な発音に近い表記」といったところか)

ですので、例示すると、
無垢浄光経 根本陀羅尼 てい


底(顛以反下同)

は、「底てい」でもいいけど、もう少し正確にいうと「顛以てい」。
「反」は“換える”。
「下同」は、“以下、同じ”。


「弊べい」は、ほんとうは「毘也びや」。

「喃なん」は、「奴暗ぬあん」。

「戍しゅ」は、ほんとは「輸聿しゅっ」のほうが近いかも?
無垢浄光経 根本陀羅尼 ぬあん



とまあ、こんな具合のようでやんす。


「引」は、「伸ばす」ね。

莎(引聲)

だと、「さ」が「引く聲」なので、「さー」。

あと、ところどころにある数字は、単純に言うと“息継ぎをするところ”。
純粋に単語の切れ目や文の切れ目でもないんだけど、“ひとつの音節になっているところ”、といった感じかな。

細かいことはあと少しあるけど、もういいよね。



それよりなにより、内容がだいじ!

訳していて思ったのは、二つの特徴があるな、ということ。

一つ目は、呼びかけの尊格が二種類、ということ。

もう一つは、「精進力」「誓願」ということばへの想い。




まず最初に呼びかける尊格が、「七十七千万の御仏方」!
うーん、すごい数だ。。
「七」が重なるところも、意味深。

次いで、呼びかけるのが、我らが「阿弥陀様」!
やっぱ、ミダだよね~^^。


はじめの「七十七千万の御仏方」というのは、
もちろん「七」がマジカルナンバーで“無限”を象徴する、という理解もできますが
(今最も用いられている「十進法」ではなく、いわゆる「七進法」を表わしている、とも考えられる。
1,2,3,4,5,6,7と数えて、8ではなくまた1に戻る考え方。
身近なところとしては、音階のドレミファソラシ。八番目で、また最初のドに戻る。
ちなみに、時計は十二進法。
コンピューターの言語は十六進法で、
その大元のデジタル信号は二進法。)


単純に連想しますのは、準胝観音様(じゅんていかんのん)かなあ。
ちょっとマイナーかもしれないけど、「七観音」のなかのおひとりで、
異名が「七倶胝仏母(しちくていぶつも)」。
梵名「サプタコーティブッダ・マートリ」をそのまま訳すと、
「七千万の仏の母」。
ほら、「七」と、「千万」。おんなじでしょ!

「千万」の原語「コーティkoṭi」には、

「ten million 十と百万(=千万)」という意味のほかに、
「extremity 先端、きわみ、窮極」、
また
「end or top of anything 何事かの終わりもしくは始まり」

なんていう、哲学的な意味合いもあるでありんす。
ほかに、「horns or cusps」“牛かなんかの角”だって!

まあ、とがった先っちょ、最先端、みたいな感じなのかな。

ちょっとくどくどと書いちゃったけど、この「コーティ」ということばも、単純な「千万という数字」ではないんやね。
(「百万の塔」を作った根拠は、この「コーティ」の仏たちに供養する、ということではないんかなあ。)


準胝観音様はどういうお方かと言うと、
「すべての仏様たちの母」。その生み出すみなもととなるお方。


(あまり一般的ではありませんが、「仏母(ぶつも)」と呼ばれる尊格群がおられます。般若仏母、仏眼仏母、救度仏母(多羅菩薩)など…。空の智慧、また根源的な母性などを象徴する方々です。)


この準胝観音様は、俗人が最初に出家する際の授戒のご本尊とされることもあり、
ある人が言うには、
「今までのおこないを反省して“よいカルマ”を作ろうとしても、“今までのおこないのカルマ”が反動的に邪魔をしてうまくいかないことがある。
その“悪いカルマ”から修行者を守ってくれるのが、この準胝観音様だ。」
とのこと。

なるほどねー。だから、この観音様のもとで出家して、特にしばらくは見守ってもらう、ということなのかな。



おそらく、この『百万塔陀羅尼』は準胝観音という尊格の誕生以前の経典と思われますので、
まだ母性までは付与されていない、しかし“すべての御仏方のみなもと”とでも言えそうな聖なる神性(いや、仏性というべきか)に気づいた先人が、それにアクセスする方法を後輩たちに示そうとした、ということではないのかな。

後に形式や尊格の概念が明確にされていって、「準胝観音」という完成形になるのだけれど、
その神性が発見されたばかりの息吹が封じ込められているのが、この陀羅尼、ということかと。
(ここらの記述は、あくまでブログ主の直感みたいなものなんで、あくまでご参考に。)



そしてそして、このすんごい「七十七千万の御仏方」と並んで、
名指しでお名前のあがっている仏様こそが、
「無量寿如来」つまりは「阿弥陀様」!

いやあ、浄土門の人間としては、ひじょーに嬉しいですねえ^^。
もちろん、この陀羅尼にとっての「阿弥陀信仰」がどういうものなのか、を特定する必要はありますが、
それにしても、無数の仏様たちと並んでいるところからして、
間違いなく重視はされていた、ってことですよね^^。

場合によっては、「無数の仏」と「無限の命」は同質と考えられたのかもしれません。
(もちろん、真逆に、性質が異なるからこそ、わざわざより分けて名前を呼んだのかもしれませんが。)


うーん、厳密に文法を見はじめると、いろいろとややこしいですが…
とりあえず、「命アーユス」の出てくるところがふたつ、ありますね。

āyurviśuddhani saṃhara saṃhara
清らかな命に、集束し、終息せしめよ

āyuḥ smara smara sarvatathāgatasamayaṃ
命よ、念ぜよ、念ぜよ。一切如来の誓約によって



前回の訳と文法をかえて、淡々と訳してみましたが、
大いなる命からの働きかけに期待している感じの呼びかけですね。

もうひとつ、気になる表現。

sarvatathāgatavīryabalena pratisaṃhara
一切の如来の精進力によって、(我を)受入れよ


この、「精進力」と「誓約(誓願)」。


如来には、すべての生き物を救う、という働きがあるからこそ、
その努力のターゲットとして、私も入っているのだから、お救いください

という、仏という理想の理念を前提として、
凡夫のサイドから救いを要求する考え方がちょっとだけ違和感、というか、すこーし鼻につく感じ、なんですよねえ。


ま、
仏母にすがるにせよ、
阿弥陀仏に着目するにせよ、

煩悩を断ち切れない愚かな我が身のままで救われたい

というスタンスを内に含んでいるのでしょうから、
後の時代の東アジアまで流れ着いた仏教が、けっこう変形して生まれた浄土系の諸派が、
凡夫の往生をテーマにああだこうだいっちゃうことになる大元が、
すでにここに見出されるんだな―、
というところが、ワタシメのこの陀羅尼の分析の成果のひとつでありんす。
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