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2011_02
26
(Sat)18:54

なぜ、浄土宗の法然上人だけ、「御忌(ぎょき)」と呼ぶのを許されたのか?

((ご注意!今回は、やけに長文です!))

というわけで、
…なんだっけ?

あ、そうそう、なんで法然上人の御命日だけ「御忌(ぎょき)」って言うことが許されたのか、でしたね。

はっきり言うとですね、

「よくわかんない」

なーんや、それ!

いやいや、まあまあ。
あんまりね、勝手な推測をしたり顔で語るのも気が引けるってなもんで。

まずですね、世相&仏教の宗派の勢力の情勢。

応仁の乱。
まあ、ざっくり言うと、足利将軍家の家督争いプラスもろもろのおもわく。

京都全土が焼け野原。

旧権力だった公家(貴族)たちは離散。どこかへ逃げちゃう。

というわけで、天皇家もかなり衰退されていました。お金、入って来ませんからね。
それに、権力の実権そのものも、かなり制限されていたでしょう。

かわって、新興勢力の拡大。(戦国時代の夜明け前)
戦乱の兵隊・足軽たちが徒党を組んで悪事を働くようになる。

足利将軍家が盛りたてた仏教の宗派は、断然禅宗です。
金閣寺・銀閣寺
知ってる?
禅宗のなかでも、「臨済宗」だよ。
臨済宗は、立派な本山がいっぱいありまして、
ランキングでナンバー5までを決めちゃった。というか、争った!?
いわゆる「五山」京都五山、鎌倉五山ってやつね。

また、地方の一向宗(今でいう浄土真宗)は一揆を起こす。(地方の民衆が力を蓄えていたことの証し)
京都の町衆は、
祇園祭(厄病ばらいの神様のお祭り。社会の混乱は、悪霊のばっこと考えたのでしょうね)と
法華信仰(現世を浄土に改変しようとする)で社会不安を乗り越えようとする。

当時は、まだまだ「浄土宗」はですね、
諸宗派の「寓宗(ぐうしゅう)」扱いだったんです。つまり、オマケ扱い。
まだ一人前として認め切ってもらってなかったの。

そんな浄土宗と、
だんだん実権力を失っていく、金銭面でも困窮している朝廷とが、
ウマが合ったんでしょうね。
後土御門天皇のころから、
「苦しいこの世を捨てて、すばらしい極楽へ往生したい!」
という願いからか、浄土宗の僧侶が朝廷に呼ばれて、大人気!になるんです。
最初のころは、西山派の浄土宗が中心なんですけど、
後柏原天皇のころは、今の知恩院派の浄土宗(鎮西派といいます)が中心に。

それでですね、後柏原天皇のときには、実は浄土宗の「総本山」は決まってなかったんですよ!
たびたび百萬回の念仏を申す法要で疫病を鎮めていた、その名も「百萬遍・知恩寺」と、
応仁の乱で燃えちゃって、メキメキと復興していた「知恩院」。
このふたつのお寺が本家争いをしていたんですねー、実は。
「百萬遍」さんは、法然上人のそばにずっと仕えておられた源智上人という方が建てたお寺。
かたや「知恩院」は、法然上人が晩年住まわれて、お亡くなりになられたところ。

まあ、由緒からすれば、だんぜん知恩院なんでしょうけど、
ただね、そのころは百萬遍のほうが、勢いがよかった!
さらに、焼けてしまった知恩院を復興するための僧侶も、百萬遍から何人もいってるんです!
だからねえ、百萬遍としては、
「うちこそが浄土宗のなかでも、一番勢いがあるよってに、一番のお寺やでー!」
といった自負があったんでしょうね。
だって、ほら、まだ浄土宗はいっぱしの宗派として世間に認められる前でしたから。
なんとなくばらけたそれぞれのお寺を、束ね上げることが、ちゃんと一宗として認められる条件、みたいなところもあったんでしょうね。

ところがです。知恩院も、優秀なお坊様に恵まれて、メキメキと復興するんですね。そんな時分の話です。
当時の後柏原天皇も、大変「浄土宗の法然上人のみ教え」に帰依しておられた。

天皇は、国を治める責任があるんです。
そして、国が乱れるのは、己が不徳の致すところ。
つまり、御自身の前世からの罪の根っこがとっても深いんだ、と、
深く反省して、嘆いておられた。

ところが、法然上人のお教えくださる阿弥陀仏様とは、
いかに罪深い者でも、
念仏さえ申せば、必ずお救い下さる、とのこと。
本当に、真面目で罪の意識の深いお方であればあるほど、
有り難いみ教えなんですよ!!

ところがです。
肝心の浄土宗の立派なお寺が、“一番争い”をしている。
いかに天皇のお諌めがあっても、なかなか言うことを聞かない。
ふたつのお寺の争いに手を焼いておられたのです。

というわけで。
ここからはあくまでワタシメの推測に過ぎませんがね。
後柏原天皇は、この争いの決着をつけるべく、
知恩院に法然上人の命日忌の法要を毎年七日間おこなうことをお命じになって、
知恩院を「総本山」とする後押しをされたんではないかなあ、と。
(七日間というのはですねえ、かなり気合の入った法要のパターンなんです。
正月に宮中と東寺で行われている“お正月の法要”も、七日間。これらを、古来「オコナイ」と呼んできました)

もちろん、
天皇ご自身が法然上人のみ教えに救われて、
「法然上人こそ、我が日本の国民をお救いになられた偉大なる上人だ!」
との想いもおありだったんだと思います。

だから、大永4年にみことのりを出されたんです。

「知恩院は、浄土宗の根本道場であり、宗祖入滅の霊跡であるから、毎年7日間、ここで御忌を勤めよ」と。
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