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2011_04
22
(Fri)22:26

法然上人の大師号について ―そのはじまりの前に

皆さま、お久しぶりです。
震災以来、ほぼ自粛しておりましたこのブログですが(ノリがおばかですので)、
来週の4月28日以降から、ボチボチ再開しようかな、と思っております。
この日は、震災から四十九日にあたるんですね。
まだ、自粛しているべきなんですが、
やはり法然上人の八〇〇回遠忌がこの4月25日と目前ですので、
その前にこの記事だけは書いておこう、と思った次第です。

ええっと、法然上人の命日だけ「御忌(ぎょき)」と呼ぶことが天皇から許されている、という話はしましたね。

それから、法然上人だけが八つもの大師号を歴代天皇から賜っている、ということも紹介しました。
しかし、その理由はわかりませんでした。

今回は、記念すべき第一回目の大師号を戴くこととなった経緯について、調べがつきましたので紹介しておきます。

初めて戴いた大師号は、

「円光大師」。

「まどかな光」
すなわち、円満なお人柄の法然上人の輝きを称えられたお名前でしょうか。
この名を下さるのに尽力されたのは、なにを隠そう徳川五代将軍綱吉公なのです。
公は、たいへん熱心な浄土宗徒でした。特に学問に熱心だったようです。
(そのほか、能楽にもたいへん熱心で、毎月のように能・狂言を行なっていました。本人も、大名たちも演じたそうです。)
五十年来行なわれていなかった僧侶たちの学問問答「論議(ろんぎ)」を、
江戸城へ二十数名の僧たちを召して毎年行い、
また増上寺も会場として、

法然上人のみ教えに対しての理解を深められたそうです。

しかし、なぜそれらが「大師号」へとつながったのか?

これは、我が浄土宗門の悲願であったのです。


時を遡ります。

延宝八年(1680)は、法然上人の思想・信念上の“真の師”善導大師の一〇〇〇年忌でした。
善導以前に阿弥陀仏への信仰をまっすぐに深く受け止めた者はなく、善導以降にその信仰の深さを乗り越えた者はいない、と言われるお方です。
この一〇〇〇年忌に向けて、10年ほども前から、様々に善導を称える機運が高まりました。
浄瑠璃の演目として「善導記」という話が作られ、
あの近松門左衛門が「念仏往生記」「一心二河白道」などの関連演目も書き上げ、たいへん好評を博したそうです。

ただし、「善導」に対する尊称が、実は定まっていなかったそうです。
いわく、
「善導和尚」。
「善導阿闍利」。
「善導禅師」。

うーん、なんかイマイチ偉大さが伝わってこない。

そんななかで、我らが忍澂上人が伝記を書くのです。
その名も、
「善導大師別伝簒註(ぜんどうだいしべつでんさんちゅう)」!
そう、初めて
善導「大師」
という尊称が用いられるのです。

一〇〇〇年忌を迎えるに当たって、我らが師の師、
善導さまは、
「善導大師」と呼ばれるようになったのです!


ちょっと長くなりすぎるので、いったん筆を置きますね。

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