--_--
--
(--)--:--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011_12
09
(Fri)17:18

『第九』の解説。宗教性バージョン。。

では、前々回からのつづき。
第九の歌詞を、もう少しこまかく、というか、宗教的に見てゆきまっしょ。

まずは、ギリシア神話。
人間は、昔は神々と共に暮らしていました。
人も神と同じように、ピカピカに輝いていたんです。
これを、黄金時代といいます。
だんだん時代が悪くなっていって、白銀の時代、青銅の時代、そして現在の鉄の時代。
ここらが、「時代によって分断された」なんて歌詞のバックボーンではないか、と。
また、黄金時代の楽園としての「エリーズィウム(エリュシオン)」が、憧憬と回帰願望の対象として出て来るでありんす。

ま、でもこれらは、おそらく“信仰”というよりは、“教養”だったんでしょうね。西洋人としての。
「昔はこうだった、なーんて言われてるけど、ほんとにそうだったらいいよね。」
くらいのノリかな。


それから、「友達のないやつはあっちいけ」的な内容がつづきますね。
(「はがない」のキャラたちはさようなら・・・。)
これは宗教というよりは、政治的な部分ですけど。
「オレらをいじめてるような、ブルジョアジーはあっちいけ!」
ということなんでしょうね。
なんせ、「神のもとには人類はみな平等」なはずなのに、
独り勝ちして、“兄弟”たちを見下して、みんなを困らせている…。
そんな奴らは、悪いけど「真実の友」なんて呼べるような仲間はいないだろ、
だから、神の前で平等に「兄弟よ!」と抱き合えない人は、どうぞあちらへサヨウナラ…
といった感じでしょうか。

仲間についてですが、まずは「友と呼べる者がひとりでも」
そして「優しい女性を手に入れた者」。
ここらは日常レベルで、ツレや彼女、もしくは親友と奥さんと理解してもいいでしょう。
ただし、10年ほど前のワタシメの意訳では
“自分の内に〈一人の友〉〈真の自己〉を見出した者”、
“自然の奥底に〈大いなる母〉〈優美なる女性〉を見出した者”
と、かなり精神的に価値を上げて解釈しておりました。
内面の問題として理解したんですね。青いなァ、でもいいけど。

あとに続くBrüsten der Natur“自然の乳房”とeinen Freund, geprüft im Tod〈死の試練を通った一人の友〉を踏まえているんですね。

日本では「自然」って、“nature”の訳語として明治以降に「無機的な人間を取り巻く環境」くらいのニュアンスで理解されちゃってますが、(それ以前は「じねん」と読んで、仏の世界のありのままの働きを指す言葉だった)
特にこの歌詞では、“〈古代からの大地母神としての自然〉の恩恵を、あたかも乳房から豊潤な乳を飲むかの如く受けている”といった文脈で語られているわけです。
(この大いなる“nature”というニュアンスは、明治期の日本にも紹介され、もっぱら「天然」と訳されました。サーカス小屋のBGM「美しき天然」という曲は、これを讃える歌です。歌詞はこちら)

そして、〈死の試練を通った一人の友〉とは、文句なくJesus Christ。ゴルゴダでの磔刑、死を経ての復活を果たされましたからね。
その前に出て来る“Reben”、昔持っていたドイツ語の辞書では「ブドウの木」しか意味が出て来なかったと思うのですが、最近調べたら「ワイン」でしたね。これもまた「キリストの血」を象徴する特別な飲み物。
「キスとワイン」なんて並べると陽気な宴会みたいだけど、
「キス」は“祝福”をあらわしますから(Küsseは複数形、つまり「たくさんのキス・祝福」)、それに続く「ワイン」も“私たちの罪に代わって流して下さったキリスト様の血”、そして“私たちを父なる神に引き合わせて下さる神の子、イエス・キリストも私たちには与えられている!”という光栄なる喜びがある、という文脈でしょうね。おそらくは。

その少し前の「善き者も悪しき者も、全ての者が通るイバラの道」とは、キリストの歩んだ受難の苦悩。修行の象徴だけど、さらに言うならば「原罪」というものを誰もが背負っている、ということを前提としてるかな。そしてそのイバラの道の向こうでキリストに出会える、ということ。

Wollust、恥ずかしくって10年前の意訳ではちょっと誤魔化しましたけど、
喜びのなかで一番低俗なものは、「Hなこと」として認識されてるんですねー。
これ、特にキリスト教圏では「卑しいもの」と認識されていましたね。
「快楽のために性行為をするのではない」みたいな。
ちなみに仏教の中の密教、『理趣経』では、「菩薩の清浄の位」と肯定されたりするんですよね。もちろん、取り扱いは大変難しいですが。
“虫けら”に対峙される存在として登場するのが、「大天使ケルビム」です。
「天使」って、フツーは可愛いちびっこ、ってイメージされるかもしれませんが、
この天使サマのお姿はエゲツナイです…。マッチョですらなく。
うーん、wikiによると、神のお姿を見ることが出来るのはこの天使以上みたいですから、
「神の前にぬかづく喜び」って、そういう意味なのかなあ。
昔は、「神の国=エデンの園の入り口を護衛することが栄誉なんだなあ」、なんて思っていたのですが…。

ここは音楽的にも面白い部分ですね。
反復される“und der Cherub steht vor Gott”という歌詞の、繰り返しの最後で“Gott!”と叫ぶ部分。ここで転調が起こり、荘厳なる神の世界が出現する、という演出がなされています。


続く、“Froh, wie seine Sonnen …”の部分は、何故か3拍子のワルツ調。ちょっと愉快な感じですが、
どうもこれは「トルコ風」ということらしいです。
当時、世界最強の軍隊は「トルコ軍」だったそうです。
そして、「トルコ軍の進軍の時の行進曲」が3拍子。ワルツと言うよりは、独特のマーチなんですね。
その「世界最強のトルコ軍のように、最強に力強く、喜びをもって突き進め!」というメッセージなんですね。
今の感覚とはずいぶん違いますが、当時の人々はすぐにわかったはず。

そして、恒星天のさらに上に至高天が存在する、そこに父なる神が必ずや、住み給う。
そうでなければならなかったんです。シラーにとっては。
いや、キリスト教徒にとっては、それこそが最重要命題であったはず。
神の存在証明」なんて議論が重ねられ続けたわけですから。
この「父なる神」の前では、万人が平等で、「兄弟よ」と呼び合う。これこそが、シラーが身分制度に反対する根拠だったのです。
スポンサーサイト

C.O.M.M.E.N.T

コメントの投稿

非公開コメント

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。