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2011_12
31
(Sat)06:36

みんなの知ってる「百八煩悩」、みんな知ってる?

もうすぐ大晦日。
大晦日のイベントといえば・・・もちろん、除夜の鐘!
でわでわ、除夜の鐘はいくつつくの?
そりゃもちろん、「百八つ」!
じゃあ、なんで百八つ?
そんなん、知ってる!煩悩の数や!
せやせや、人間には百八の煩悩があるさかい、
一年の終わりにはその煩悩を払うために鐘をつくんや。
よくご存知で。
というわけで、
「その百八の煩悩を、ひとつひとつ言うてみて下さい。」
え?それは…
というのが、普通の反応でしょうか。
かく言うわたしも、よくわかっていませんでした。
調べてみたら、わりと諸説ふんぷん。
煩悩とは関係ないものもあんでー。

いわく、四苦八苦から、4×9+8×9=108だとか、
一年12カ月、二十四節気、七十二候の合計、12+24+72=108だとか…。

いや、煩悩説も、どうやら数種類はあるみたい。
それぞれ、すばらしいサイト様がありますので、
詳しくは、こちらッ!(←丸投げかよッ!!)

読んでみると…う~ん、正直、ムズカシイっすね。
もう少しわかりやすいサイトはぁ、ないかいな、と。

おお!またまたスバラシイ!
というわけで、こちらッ!(←また丸投げ…)
こちらのサイト様は、丁寧にも4回にわたる連載です。


どうやら、百八煩悩は、一般的には

「九十八随眠・きゅうじゅうはちずいめん」と「十纏・じってん」とを合わせたもの

というのが妥当な解説のようです。

もう少しざっくり言うと、

98のでっかい煩悩と、10のちっちゃい煩悩。

「随眠・ずいめん」という言葉は、愚考しますに
“(無明という)闇の眠りへと引きずり込むもの”。
覚り(目覚め)から、どんどん遠ざけるもの、
といったところでしょうか。

ちっちゃい煩悩こと「纏・てん」ですが、これは
“身に纏(まと)わりついて、悪い方へと誘い込むもの”。

言葉のニュアンス的に、
“ボス”と“ザコ”、って感じ?


でも、98もでっかい煩悩があるのかー。やーれやれ。
と言いながら、読むのをやめようとしたアナタ!
ダイジョブ、ダイジョブ。
ハッキリ言って、98もありませんから。
たったの10!いや、6!
百八煩悩ってったって、6だっぺよ!

まず、1番目。「貪・とん」つまりむさぼり。
貪欲の「貪」ね。飽くなき欲望。“ほしいほしい”の心。だれにでもありまんがな。

つぎ、2番目は「瞋・しん」いかり。
この漢字は、“目を吊り上げて怒る”という意味。強い憎しみやね。敵対心、というか。
注意すべきは、こうやって怒る場合は、“我こそ正しい、アイツは間違っているッ!”という心理が働いていること。これが間違っている、とか言いたいんじゃなくて、覚りを開くためには、こういう思考パターンにはまっていては、ヤバイ場合がある(多い)、ということ。日常生活では、この態度は必要なことも多いわけで。
(煩悩とは、「煩わしい悩み」。つまり、「“覚りを求める修行者にとっては”煩わしい悩みとなるもの」です。
倫理とか、社会規範とは違う、個人的な成長に役立つものか、それともさまたげるものなのか、ということ。)

第3番目は、「痴・ち」おろかさ。
これは、覚りに対する盲目性すべてを指していると思われます。
目覚めさせないもの。
闇へと引きずり込むもの。
つじつまが合わないことをよしとしてしまうもの。

ここまでが
特に重要な「三大煩悩・さんだいぼんのう」
もしくは「三毒煩悩・さんどくぼんのう」
と呼ばれるものですが、
もっと言えば、その根源こそが、この第3番目の「痴」なのです。まさに字の通り、「“知ること”の病」。


さて、気を取り直して(?)さらに続けましょ。
4番目は「慢・まん」慢心。いわゆる“おごりたかぶり”。
これ、
オーバーフローした自己肯定観というか、
自分のショボクレさ加減が見えてないというか、
ウヌボレ、ええかっこしい、いい気になっとる、そんな心理。
「われ、だれよりも勝れたり」と、周囲を見下すこと。これでは、さらなる成長もありえませんね。

5番目の「見・けん」とは、モチロンただ見るのではなくって、悪い見方。間違った考え方のこと。
「クレイジー・ケン」と呼んでおきましょうか。
ただ、これは実はシビアです。
普通に私たちが悩んでしまうような「自分とは」「死後とは」「この世の仕組みとは」「この世の真実とは」「正しい修行とは」という疑問。これらの問いかけに対する、仏教的な解答に反する全ての立場を指しているのですから。
「見」を詳しくいうと、五つあります(五見・ごけん)。

1有身見(うしんけん)
「オレのものはオレのもの、おまえのものもオレのもの」(←ちょっとちゃうか…)。自分の肉体や心を「われ」「わがもの」と思い込むこと。
これって、つまりは“普段私たちが思っている(思い込んでいる!?)「私」というものも、本当は仮のものである、実体がない”ということ。すでに受け入れ難い見解ですよね…。

2辺執見(へんしゅうけん)
どちらか両極端な見方にこだわってしまうこと。
なんにでも言えそうな話なんだけど(日常の教訓としては、「あまり極端に物事を考えない」でじゅうぶん)、どうも仏教的には「断見・だんけん…死後は消滅してしまう」「常見・じょうけん…死後も永遠に存続し続ける」という、“魂(我)”の問題にしたいらしく…。
そんなの、ようわからんモン!知らんモン!ひとりでできるモン!というのが、私たち現代人の実感ではないでしょうか。

3邪見(じゃけん)これ、広島の方が文末でよく使うフレーズ。(←それは広島弁やろッ!)
ちがった、どうやら「因果応報をみとめない立場」のようです。
ええっと、「バチが当たらないから、バチなんてないんだから、悪いことしても平気だモン!」ってことかな。
「原発ぶっこわれても、飛び出た放射能は“無主物”だから責任とらないモン!」とか、
「原発壊れる可能性は、めちゃくちゃ低いからゼッタイ壊れないんだモン!」(←過去の原発推進理由)とか、
「プルトニウムは飲んでも平気だモン!」とか…。
みーんな、バチが当たります。

4見取見(けんしゅけん)「先取点せんしゅてん」じゃないよ。
これ、「おらが村がイチバン!」的な立場かな。間違った見解なのに自分こそが勝れている、とみなすこと。
どうも、個性的な宗教者サマに多い考え方、というか、考え違い、みたいだけど、これって「慢」からの発展形ですよね。

5戒禁取見(かいごんしゅけん)
間違った修行に固執してしまうこと。
空中浮遊するぞ!ってムチャなことしたり、尊師サマの教えだからって、反社会的なことをしちゃったり、とか。

※この「五見・ごけん」を「六随眠・ろくずいめん」とあわせると、「十随眠・じゅうずいめん」といいます。


さて、五見ですっかり疲れてしまった感じですが、最後です!

6番目は「疑・ぎ」真理(正しい法)を疑うこと。
「疑う」の反対は「信じる」ですが、この両者を比べることで、より一層見えてくるはず。
もちろん、盲目的な信仰では話になりませんが、
「健全な信頼を寄せる」というのは、心身の状態を“安らかなもの”に導きます。
「世界のあらゆるものに対して、信頼の眼差しを向ける」とは、
「それらを尊重する態度を身につけている」ということ。
敬いの気持ちでもって接することで、いろんないいところが見えて来て、それらを学べる機会も訪れるわけです。

「疑う」ことは、これらすべてがない、ということ。
もちろん、
「疑問を投げかける」ことによって物事のいたらない点が見えて来て、よりよいものが生み出される、ということも十分にあります。
現代社会は、まさにこういう「批判の精神」によって洗練されていくのです。
しかし、
“精神生活”においては、
どちらのスタンスに軸足を置けばより豊かなものになるか、
というと、
まぎれもなく
「信じる」立場なわけです。

まあ、これも両極端ではイケナイと思うのですが、
それにしても、

神経を衰弱させるような「疑い」には気をつけて、
精神性の高い世界へと目を向けましょう!

というのが、この煩悩の存在理由ではないでしょうか。
おお、このブログらしい一年を締めくくる言葉になったかな?

そして、まだまだ言い足りないことが残っちゃったので、続きはまた新年に!
あ~、煩悩のことで頭がいっぱいのまま年越しするのかー。
なんかこのブログらしいな。。


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