なんだかこの頃、センセンカクカク、小競り合いで不穏なムードがあります・・・
戦後のアメリカによる自虐史観の植え付けによって、
我ら日本民族が、自らを日本民族と主張することがハバカラレル感じになっちょりますが、
それはご先祖様がたに、あまりにも失礼。
なんか、
暴力的に「大和魂」を叫ぶお方々は、
そもそもなんにも「大和魂」がないワケでして。
こういうコト言うと、右寄りだとかなんだとか言われちゃいそうですが(もちろん悪い意味で)、
そういう“戦後の洗脳教育を受けていることすら気づかずに批判しちゃう人たち”の底の浅さを示すために、
ここに「やまと心」についての説明を引用・紹介いたしませう!
終戦前の昭和19年に刊行された、『神道史の研究』河野省三・著より。(原文を適宜修正・省略して読みやすくしております。あしからず。)
『やまと心』の根本的特徴は、第一に「神々しさ」
厳かな、勿体ないような、真剣な、何かしら拝みたくなるような気持ち。
第二は「懐かしさ」
温かい潤いのある気持ち。優しい親しみの心。
第三は「清々(すがすが)しさ」
さっぱりとした純真な気分を悦ぶ性情であり、『やまと心』の本来の姿。
『やまと心』が
この「神々しさ」と「懐かしさ」と「清々しさ」とを歪みなく発揮するところに
『真心(まごころ)』が存する。
これが本居宣長らのいうところの
「神代ながらのまこと」である。
「神道の生命」であり、「神ながらの道」の本質である。
『やまと心』のこれらの特性が
「神々しさ」の気分を中心とした時、そこに「晴れやかさ」がある。
それが「懐かしさ」の濃(こま)やかな時は「朗(ほが)らかな心」となり、
さらに「清々しさ」を中心とする場合に「爽やかな心」となる。
そして
『やまと心』の「神々しさ」に「清々しさ」が結びつくと、
そこに「雄々しさ」という勇気が発生する。
「懐かしさ」に「神々しさ」が添えられれば「みやび(優雅)」という貴(とうと)い情操が生じ、
「清々しさ」に「懐かしさ」が加われば、そこに「大らかさ」という広い気分が起こるのである。
「雄々しさ」と「みやび」と「大らかさ」は
『やまと心』の〈第二次的特徴〉であり、“日本民族の重んずる人がら(性格)”である。
この“三様の人がら”を併せ重んずるところに
〈日本武士道〉の道徳的、思想的特色がある。
いかがでしたか?
まだもう少し続きますが、キリがいいんで、とりあえずここまで。
河野氏によれば
「やまと心」は平安時代に漢意(からごころ)に対抗して意識され、江戸時代の賀茂真淵や本居宣長ら、国学者によって復活され、幕末からより一層緊張されて、「大和魂」として勤王家の胸中に動いていた
とされます。
ですから、
「やまと心」の臨戦形態が「大和魂」って感じかな?
批判もありましょうが、
欧米列強による世界植民地化に対抗するために日本が考えていた「大東亜共栄圏」とは、
列強諸国の猿真似の“日本人による東アジア各国の強権的植民地支配”では決してなく、
上述の
「やまと心」に則った平和・融和的なものであったのだ、と確信したいところです。
それにしても、
この「やまと心」のすばらしさ、気持ち良さ!
こういう理念に心酔していた若人(わこうど)たちが、
日本の、アジアの未来のために闘っていた、ということを、
私たち日本民族が知らずして、誰が知るべきなのでしょうか!
たとえ中国や韓国がキツク訴えるような日本兵による非道な振る舞いが事実としてあったのだとしても、
(残念ながら、人間の本性には深い闇の部分がありますからね。どの民族でも、戦争のなかの無秩序状態では、人ならざる振舞いがあるようです。例えば、
ボスニア・ヘルツェゴビナの内乱時の某収容所。
また、最近話題となって来た韓国のベトナム戦争時の混血・
ライダイハンの問題など。)
少なくとも、
古き良き日本民族の美しい理想として
その子孫たちが
懐かしむ必要はあるのだと思います。
今、この時代だからこそ。
これらを体現する政治家さん、
あなたは思いつきますか?
むしろ、このブログを読んだお方は、
これらを体現する若人であって頂きたいものです。
(あ、若くなくっても、ここはひとつ若人ってことで。)
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