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2012_10
16
(Tue)06:35

法然上人のご法語、一部公開!第二十一章「登山状」金谷の花

さあ、昨日の続き!記事を貼り付けるだけだから、ラクでええなあ。


〇第21章  無常の日々

 あるいは“金谷(きんこく)の花をもてあそびて”遅々(ちち)たる春の日を虚しく暮らし、あるいは“南楼(なんろう)に月をあざけりて”漫々(まんまん)たる秋の夜をいたづらに明かす。
あるいは“千里の雲にはせて”山のかせぎをとりて歳をおくり、あるいは“万里の波に浮かびて”海のいろくずをとりて日を重ね、あるいは“厳寒(げんかん)に氷をしのぎて”世路(せろ)を渡り、あるいは“炎天(えんでん)に汗を拭(のご)いて”利養(りよう)を求め、あるいは妻子眷属に纏(まと)われて〈恩愛の絆〉、切り難し。あるいは執敵怨類(しゅうてきおんるい)に会いて〈瞋恚(しんに)の炎(ほむら)〉、やむことなし。
総じて、かくのごとくして、昼夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時としてやむことなし。ただほしきままに、飽くまで〈三途八難(さんずはちなん)の業(ごう)〉を重ぬ。
しかれば或る文には、「一人一日(いちにんいちにち)の中(うち)に八億四千の念あり。念々の中(なか)の所作、皆是れ〈三途(さんず)の業〉」と云えり。
かくのごとくして、昨日もいたずらに暮れぬ。今日もまた、むなしく明けぬ。いま幾たびか暮らし、幾たびか明かさんとする。
『勅伝 第三十二巻』「登山状」より

 
或いは“金の谷に花を弄んで”遅々として流れる春の日々を虚しく暮らし、或いは“南の楼(たかどの)に昇り、月を見て”はしゃぎ、とりとめもなく続く秋の夜をいたずらに明かしゆく。
或いは“千里の空をたなびく雲を追いかけて”山の菜を摘み、獲物を狩って年を送り、或いは“万里の海に立つ波間に浮かんで”魚たちを捕って日々を重ね、或いは“寒さ厳しい折、氷に震えながら”世間の義理を果たし、或いは“炎天下に汗を拭いながら”己の利益を求め、
或いは妻子や手下に縛られて〈情愛の絆〉は切り難く、或いは怨み敵(がたき)に遭えば〈怒りの炎〉のとどまることもない。
総じて言うなら、このように「昼夜、朝夕、行くも留まるも、座すも臥すも、片時も止むことなく、ただ煩悩の欲するまま」に振舞っている。己が飽きるまで、〈地獄・餓鬼・畜生の苦しみ〉に沈み、〈仏道から顔を背けた楽しみ〉に耽り、〈浅はかな知恵〉を振りかざしていい気になり、あげくは〈仏縁を結べない時〉を生きることとなる。
ある経文にもこうある。「“一人の一日の心の内”には、八億四千の念がある。この一念一念の振舞い全てが〈三悪道の苦しみ〉より生まれる」と。
このようにして“昨日”もいたずらに暮れてしまった。そして“今日”もまた虚しく明けようとしている。
今は幾たびの日暮れだろうか。幾たびの夜明けだろうか。


【解説】
美文麗文の限りを尽くした『登山状』の第二段ですね。これは第1章からの続きで、次の第22章はこの第21章の続き。つまり、“3つの章”はつながった文章なんですね。
「金谷」とは、昔中国の洛陽にあった谷の名前で、詩と酒の盛大な宴が行われた場所。晋の石崇の別荘、金谷園のこと。「南楼」とは晋の庚亮(ゆりょう)が殷浩らと月を眺めながら語り合い、詩を作った楼(たかどの)のこと。共に“浮世の虚しい楽しみ”を象徴しているのですが、中国的な華やかさで、何とも雅やかですよね。
「千里の雲に~」からは私たちも身につまされる、“日暮らしのためにあくせく苦労を重ねる様”です。
続いて〈四苦八苦〉のうちの〈愛別離苦〉、〈怨憎会苦〉なのですが、特に前者の方はそう簡単ではありません。“憎いやつに会って怒りの炎が燃え盛る”。これはいいとして、「妻子眷属にまとわれて」“まとわれる”この言葉には、一種の嫌悪感が漂っています。アメリカン・ホームドラマの「家族の絆がいちばん」どころではない価値観ですよね。「恩愛のきずな切り難し」これも、“恩愛とは断ち切るべきもの”という前提より発せられる言葉です。狭い意味では、「筆者が聖覚という僧侶で、なおかつ手紙の送り先も比叡山の僧侶たちで、“出家”自体が世俗を捨てることを建て前としている」ため。(しかし、聖覚・澄憲の親子二代(!)の僧は、二人とも子だくさんでした。)
さらに広義では、「〈六道輪廻を続けるこの娑婆の世〉を捨てること」も含めているのでしょう。頭では、理解してるんだけど…。♪あ、わかっちゃいるけど、やめられない!境地やね。
こうして日々夜々、“いてもたってもいられない”、違った、居ても立っても何してる時でも「三途八難」から逃れられない私たちなのでした。ちゃんちゃん♪
もちろん、こんな軽いノリなのではなく、よく考えると“一瞬一瞬が〈煩悩〉まみれで〈業〉を生み出し、塗り重ねている我が身”。そこに、“一日八億四千の妄念がある”、と告げられて、精神的にノックアウト!しそうなくらいの現実を突きつけられるワケです。
一日にして、かくのごとし。“昨日”はいつの間にかムダに終わってしまった。そして“今日”も、たぶんむなしく終わっちゃうんだろうなァ…。どーする!?どーする!?で、つづく。

金谷の花・きんこくのはな  “金谷”とは「金谷園(晋の石崇・せきすうの別荘))のこと。そこで“酒宴を催し客に詩を作らせ、作れない客に罰として酒を三杯飲ませた”という故事が伝わる。“金谷の花”とは、その華やかさをいう。
南楼の月・なんろうのつき  晋の庚亮(ゆりょう) (289—340)は名門貴族出身の政治家。美貌と威厳を備え、清談を得意とした。庚亮が或る秋の夜、武昌の地を征西将軍として治めていた庚亮は、その地にある「南楼」の上で手下の幕僚・殷浩(?-356)たちが興じていた“月の宴”に立ち寄った。驚いた臣下たちが引き下がろうとするところを留め、すぐさま腰を掛けて談笑や吟詠をして、楽しく一夜を過ごしたという。『晋書』「庚亮伝」に記されている。
山のかせぎ・やまのかせぎ  薪を拾って売る、木を伐り炭を作って売る、山菜や薬草を採って生活する、鹿や鳥、猪などを狩って生活することなど。
海のいろくず・うみのいろくず  “いろくず”は“いろこ・うろこ”。つまり、“うろこのある生き物=魚”のこと。“海の魚たち”を捕って生計を立てること。
世路・せろ  “世の路(みち)”。世を渡り、生活をしてゆくための道。
利養・りよう “利得をえて、自らを養う”。お金を稼いで、生活の糧を得ること。
恩愛・おんない  “心内に想う親愛の情”。ここでは、輪廻から抜け出ることの出来ない原因として、否定的に捉えている。
執敵怨類・しゅうてきおんるい  “怨みがあって、自分が敵(かたき)だと思っている連中”。
瞋恚の炎・しんにのほむら  「瞋」は“目を見開いて怒ること”。「恚」は“怨み怒る、もだえ怒ること”。怒りたかぶって、体感が熱くなった状態。
三途八難・さんずはちなん  “〈仏法〉に出会う機会のない境地”の総称。〈三途〉とは、“熱苦をうける〈火途〉”、“刀・剣・杖などで強迫される〈刀途〉”、“互いに相食む〈血途〉”の三つで、それぞれを〈地獄〉・〈餓鬼〉・〈畜生〉の〈三悪道〉に当てはめる。これらの世界の者たちは、“苦しみのあまり仏の声を聴くことが出来ない”という。 〈八難〉は、前述の〈三悪道〉に加え、4〈長寿天―あまりに長寿の神として生まれること〉・5〈辺地(へんじ)―仏法の届かない辺境の地〉・6〈盲聾瘖瘂(もうろういんあ)―眼や耳、声が不自由な境遇。肉体的な特徴に限らず、精神的に仏法に興味の向かない状態も該当しよう〉・7〈世智弁聡―世の中のことにだけ長けている場合〉・8〈仏前仏後―釈迦仏誕生以前と、末法が過ぎて法滅となった時代〉。三途ほどではないが、それぞれの境遇によって仏法に耳を傾けることが出来ない、という。

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