--_--
--
(--)--:--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010_12
29
(Wed)08:03

熊手の話 その1

おお、このままでは年が変わってしまうではないか!
というわけで(←どんなわけだよッ!)
この前のつづきでーす。(←なにも聞いてねえよッ!)
そうそう。だるまさんのお話はしたので、
今度は熊手の話でしたよね。(←だから、聞いてねえっつってんの!)

あの熊手。残念ながら、だんだん需要が減っているような感じがしないでもないですが…
とってもキッチュですよね!
そして、その構成要素は。

えびす大黒。
お多福。
目出「鯛」。
大判小判。
鶴亀に松竹梅。
打ち出の小づちに大入り袋に招き猫。
エトセトラ、etc.…。
おお、なんだか、めでたい縁起物のてんこ盛り!
そして、よくよく考えると、
とっても欲張りな感じなんですよね~!
ある意味、「俗物」のかたまり!?(ああ、ちょっとお叱りを受けそうな予感…)

いや、今言いたいのはですね、
大判小判がキラキラ輝いていたって、
俗なお願いごとを叶えてくれるマジックアイテムがいっぱい貼り付けてあるからって、
大いに結構!結構!(←なんかエラそうだな…)

まさに、これは
「俗、極まって聖」なる世界を出現させているモノではなかろうか、とおもうわけです。

「俗」と「聖」は表裏一体。
「俗」をとことん追究すると、かえって「聖」にたどり着く、というか、
たとえ「俗な願いごと」であっても、
その奥底に流れているものは、
やはり「大いなる神仏の意志」へと一脈通じるものがある、と思うのです。
(経済原理とは、そもそもが「経世済民」。
個人の欲望から始まっているとしても、トータルで誰かが誰かの為になっている、ということ。)

まずは、「神仏に手を合わせる」ということが一大事!肝心かなめ!
そこから、どれだけ我欲から離れるかは、それぞれの人の生き方だし、スタイルだし、
優劣の問題ではない!と思います。ただ単に、人生で何を究めるのか、という問題。
(信仰に没頭して、世俗をちゃんと渡っていくのがヘタな人もありますからね。)

仏様の目から見れば私たちは五十歩百歩だと思いますよ。
ただ、神仏からよそ見しているのと、
神仏へちゃんと手を合わせて拝んでいるのとでは、ずいぶん違う。
それが1分、1秒、1日、10年、と重なって来ると、ずいぶん違う。
だから、きっかけはどうであれ、「神仏に手を合わせる」という、
信心
を、日々養っていただければ、
この世だけでなく、
のちのちの世までも意味のある生き方へと繋がっていくんじゃないかなぁ、
と、年の瀬に愚考する次第です。

ちなみに、
「俗、極まって聖」
この反対もまた真なり、で、
たとえば
ウルトラバロック」と命名された南米の教会内部の装飾なんか、まさに
「聖、極まって俗」
といった趣です。
(またちょっとお叱りを受けそうだな…)
スポンサーサイト

C.O.M.M.E.N.T

コメントの投稿

非公開コメント

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。