2014_02
17
(Mon)04:47

百万塔陀羅尼、解説しまーす! その2 無垢浄光経 根本陀羅尼の訳

さあ、昨日の記事では

???(チンプンカンプン)

だった百万塔陀羅尼のお経の、初めに出てくる陀羅尼の部分。
ぐあんばって、訳しましたで~!

しかも、これがまたすばらしい!
(←自画自賛じゃないよ。内容そのものが、とってもすばらしいということ。)

それにしても、この陀羅尼の訳なんてググってもぜんぜん出てきませんから、
これまた画期的なことですよねえ。
(←自画自賛)


お経はまだまだ続くけど、とりあえずは今回は最初の陀羅尼の訳だけ。

では、ゆきます!





南謨 颯哆颯怛底毘也 三藐三佛陀倶胝喃
なうぼー さったさったちびや さんみゃくさんぶっだくちなん
Namaḥ saptasaptatibhyaḥ saṃyaksambuddhakoṭīnāṃ
帰命し奉る、七十七千万の、この上なく正しい覚りを完成した御仏方を。

鉢唎戍陀摩捺娑 薄質多鉢唎底瑟恥哆喃
ぱりしゅだまなさ ばちたはらちしゅちたなん
pariśuddhamanasavācittapratiṣṭhitānāṃ.
“ほんとうに清らかな意志”を自らの心として安立なさっておられる御仏方を。

南謨 薄伽跋底 阿彌多喩殺寫 恒他掲怛寫
なうぼー ばがばてい あみだゆしゃしゃ たたーぎゃたしゃ
Namo bhagavate amitāyuṣasya tathāgatasya.
また帰命し奉る、世にも尊き“はかり知れない命(無量寿)”の如来様を。

晻 怛他掲多戍第 阿喩毘輸達儞 僧喝羅僧喝羅 
おん たたーぎゃたしゅでー あゆびしゅだに そがらそがら 
Oṃ tathāgataśuddhe āyurviśuddhani saṃhara saṃhara
おお、清らかな如来よ!わけても“清らかな命(無量寿如来)”よ!私を受け入れてください、あなたがたとひとつにしてください!

薩婆怛他掲多 毘唎耶跋麗娜 鉢剌底僧喝囉
さらばたたーぎゃた びりやばれな ぱらちそがら
sarvatathāgatavīryabalena pratisaṃhara
すべての如来様方の精進力の帰結として、どうか私をお受入れくださいませ!

阿喩薩麼囉薩麼囉 薩婆怛他掲多三昧焔
あやさまらさまら さらばたたーぎゃたさまえん 
āyuḥ smara smara sarvatathāgatasamayaṃ
命(無量寿)よ、私を想ってください、念じてください!すべての如来の誓いに沿って。

菩提菩提 勃地也 毘勃地也 菩馱也菩馱也 
ぼでぃぼでぃ ぼでぃや びぼでぃや ぼだやぼだや
bodhi bodhi bodhya vibodhya bodhaya bodhaya
覚りよ、覚りそのものよ!お認めください、私のことをお気づきください。私をして、どうか覚らしめください、覚らせてくださいませ!

薩婆播波 阿伐喇拏毘戍第 
さらばはんば あばらなびしゅでー
sarvapāpa-āvaraṇaviśuddhe
すべての罪悪と目くらましをすっかりと取り払ってしまったお方よ!

毘掲多末羅珮焔 蘇勃馱勃第 
びがたまらべーえん そぼだぼだでー
vigatamarabhayaṃ subuddhabuddhe
魔の恐怖から離れ去り、正しく目覚めた覚者よ!

虎嚕虎嚕 莎婆訶
ころころ そわか
huru huru svāhā.
私をここから連れ出して、お導きくださいませ! 御仏に幸あれかし!!
2014_02
16
(Sun)09:53

百万塔陀羅尼、解説しまーす! その1

いやあ、ついに昨日見ちゃったなあ。百万塔陀羅尼
名古屋市博物館で『文字のチカラ展』ってのにすべりこみでいったんだけど、
展示の最後の方にありましたよ。世界最古の印刷物が。

やっぱり、現物を見るといいあじの、字

去年の夏に、ある人にたのまれて、この陀羅尼のこともブログに書かなきゃ、とは思っていたのですが。
(←思ってるだけなら、やってないのといっしょ!やでー)

ハイハイ。

まあ、なんでこんなものが作られたかとかは、まあwikiにでもゆずっといてえ。


こっちでは、陀羅尼の全文と訳を中心に、ぼちぼち解説でもしまひょっかねえ。


まず、この陀羅尼がどこに出てくるのかというと。

『無垢浄光大陀羅尼経』というお経が出典です。

お経って、ストーリーになってるから、ちょとづつ、おおざっぱ訳をのせながら陀羅尼も紹介しますね。



“けがれなき清らかな光を放つ歌”を説く御仏のことば

ある時、御仏はカピラ城の大きな僧院で、大勢の弟子たちといっしょにいらっしゃいました。
弟子の中には大菩薩たちもおられます。
“すべてのさまたげを取り除いた者(除一切蓋障)”という菩薩、“ヴァジュラのあるじ(金剛主)”という菩薩、観世音菩薩、文殊師利菩薩、普賢菩薩、無尽意菩薩、弥勒菩薩。かれらがその菩薩たちのリーダーでした。
また、天・龍はじめとして無数の神々もおられます。
そんななかでのおはなしです。

ここに、大婆羅門が訪ねてきます。名は「カピラセンダ(カピラの月?カピラへの怒り?)」。
彼はバラモンの僧ですので、仏教のことを信じてなかったのですが、占い師に「あなたは七日後に死ぬね」と言われて怖くなり、怖気づいて、助けてほしい一心で御仏のところにやってきます。
「あのゴータマという沙門ならば、なんでも知っているはずだ。あの男なら、どうしたらいいかも知っているだろう。わしの心の迷いもなんとかしてくれるだろう」

釈迦如来は過去から未来のことまですべてご存知でしたので、やってきた婆羅門に、やさしく慈しみを持って語ります。
「偉大なる婆羅門よ。あなたは七日後に死ぬでしょう。死んでから、もっとも恐ろしい阿鼻地獄へと堕ち、それからその周囲にある十六小地獄へ出入りすることでしょう。
それから、人として最も蔑まれているセンダラとして生まれ変わるでしょう。
そして死後、猪として生まれ変わり、臭い泥の中で糞を喰い漁って生きるでしょう。ここでの寿命は長いが、苦しみは多いです。
そしてその後、人として生まれるが、貧しく卑しい身分であり、臭く汚れて黒くやせ細った醜い姿です。喉も針のように細く、食べることもままならない。人に棒で殴られて、非常に苦しむでしょう」
これを聞いて、バラモンはびっくり!おおいに泣き、怖がって悲しみます。
御仏の両足にすがりついて拝み倒し、助けを求めます。
「だれもをお救いくださる仏さま!どうか、どうかわたしを、そのような苦しみからお救いくださいませ!
わたしは今までの悪い心を反省します。仏さまの弟子になって、一から出直します!」
そこで御仏は、このバラモンに語ります。

「このカピラ城の道の三つまたの辻に、古びた仏塔があります。実はこの中には、如来の舎利(真骨)があるのです。この崩れかかった塔を、あなたが直しなさい。そしてこの塔の中心の傘の部分(相輪橖そうりんとう)に「陀羅尼」を書いたものを収めて、盛大に供養しなさい。
そうしてこの陀羅尼を七遍(七十七遍?)、念誦すれば、あなたの寿命も延び、長生きをしてから、亡くなって後も(阿弥陀仏の西方)極楽世界へと生まれ、百千劫にわたって〈大いなる勝れた楽〉を受けるでしょう。
次には(阿シュク仏の東方)妙喜世界へと生まれ、さっきと同様に百千劫にわたって〈大いなる勝れた楽〉を受けるでしょう。またつぎには(弥勒菩薩の修行している)兜率天宮へと生まれ、やはり百千劫にわたって〈大いなる勝れた楽〉を受けるでしょう。
どこへ生まれ変わってもよい宿命ばかりで、すべての悪縁は消え、すべての罪から解放されて、もはや地獄へ堕ちることはないでしょう。なぜなら、いつもすべての御仏に見守られて、導かれるからです。
バラモンよ。もし仏教の修行者や信者のなかで、寿命が短い者、病に苦しむ者がいたならば、同じく古い塔を修復させたり、もしくは小さな泥で作った塔でもいいので、なかに同じく陀羅尼を書いて収めさせ、供養を手伝ってやってはくれませんか?この福徳によって彼らも寿命が延び、病も癒えて、同じく地獄や畜生や餓鬼の道から離れられるでしょうから。」
これを聞いて、カピラセンダはすっかり嬉しくなり、すぐにでも飛んで行って塔の修理をして供養したい気持ちでいっぱいになりました。

そこで、一同のなかから“すべてのさまたげを取り除いた者(除一切蓋障)”という菩薩が立ち上がり、合掌して御仏におたずねします。

「世に尊きお方よ。その〈福徳の善根を長く育てる陀羅尼法〉とはいったいどのようなものなのでしょうか?」
御仏はこたえます。
「ここに、偉大なる陀羅尼があります。その名を、『最勝にして無垢なる清浄な光明の大壇場法』といいます。あらゆる仏たちがこの法によって生き物たちを慰め、心安らかに導いてきました。
もしこの陀羅尼を聞く事ができれば、五逆の罪も消え、地獄への門も閉ざされます。物惜しみの心、貪りの心、嫉妬の罪の垢も除かれ、短命だった者は命も長らえます。吉祥事が次々に訪れることでしょう」
除一切蓋障菩薩は重ねて問います。
「世尊よ。どうか、すべての生き物たちが長寿を得られますように、すべての罪を許されますように、だれもがこの大いなる光明に照らされますように、その陀羅尼法をお説き示しくださいませ!」
世尊はこの嘆願を聞き入れ、みずからの頭頂より大光明を放ったのでした。この光は広大なる三千大千世界すべてを照らし渡り、あまねく、すべての如来を目覚めさせて、ふたたび釈迦仏のところへと還って来て、その頭頂へと入って行きました。
それから御仏は、美しく妙なる、まるで迦陵頻伽のような歌声で、悦びに満ちて語りだしました。

無垢浄光経 根本陀羅尼


「南謨颯哆颯
怛底
(顛以反下同)
(毘也反脣聲一)
藐三佛陀倶
胝喃(奴暗反下同二)
鉢唎戍(輸聿反下
同)
陀摩捺娑
(三)(去聲引)
多鉢唎底瑟
恥哆喃(四)
謨薄伽跋底
阿彌多喩殺
寫恒他掲怛
(五)(引 聲六)
怛他掲多戍
(七)阿喩毘
輸達儞(八)
(呵葛反)羅僧
喝羅(九)薩婆
怛他掲多毘
唎耶跋麗娜
(十)鉢剌底僧
喝囉阿喩(十一)
薩《麼》囉薩《麼》囉(十二)
薩婆怛他掲
多三昧焔(十三)
菩提菩提(十四)
勃地(亭也反下同)
毘勃地(十五)
馱也菩馱也
(十六)薩婆播波
(引)阿伐喇拏
毘戍第(十七)
毘掲多末羅
珮焔(十八)蘇勃
馱勃第(十九)
嚕虎嚕莎(引聲)
(引)




今日は、ここまでにしときまひょか。
陀羅尼の解説は、またの機会に。

ちなみに、この陀羅尼の文字送りは、百万塔陀羅尼に入れてある紙と同じ文字送りにしておきました^^。
カッコ内の文字は、百万塔陀羅尼の印刷の紙では小さい字になっている部分。
二重山カッコ内の文字は、この紙には書かれていない部分です。
悪しからず。
2014_02
07
(Fri)13:03

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の原典、よみやすい現代語訳~!

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、
原典があるんだって!
ツレのお坊様のブログに原文(←リンクはこちら)が紹介されていたんで、
ついつい現代語に翻訳してみました^^。

もともとは、ポール・ケラスというドイツ人のおっさんの書いた「蜘蛛の糸」らしい。
だれだ?それ?(←なんてもの知らず…!)
いやいや、ちょっと調べてみると、19世紀末にアメリカ在住で活躍された作家にして哲学者で、
東洋思想にも通じていた、とか。
その仏教的な教訓の短編集『カルマ』のなかの一編がこの『The Spider-web』というわけ。

この本を、当時の著名な日本人仏教者、鈴木大拙が『因果の小車』というタイトルで翻訳なさっておられまして、
今回はその古めかしい日本語訳をやわらかい現代語に訳しなおした、ってなあんばいでござんして…。

せやから、
原典の翻訳の翻訳
になるわけでんな!


というわけで、
ここに公開いたしまひょ!


小さなカルマの歯車:“蜘蛛の糸”の信心


慈悲深い僧侶が、
ていねいにマハードゥータ(大いなる白)の傷口を洗って清めていると、
かの盗賊は自らの罪を反省し始めた。

「わたしはあまりに多くの悪いことをして来た。
善いことなどひとつもしたことがないのだ。
わたしはどうやってこの罪から逃れられるのか。
〈我執〉という
“ひとつの妄念より噴き出して天までも溢れかえる罪の網”を。

わが〈カルマの報い〉は、
わたしを必ずや地獄へと連れて行くだろう。
〈カルマから解き放つ尊い御教え〉には、ついぞ巡り合えなかった」と。


そこで僧侶は語り始める。

「“善いおこないが善い結果を導き、
悪いおこないが悪い結果をもたらすこと”が
〈天の定められた道〉ですので、
あなたがこの世でなしたおこないの罪というものは、
必ずや巡り廻って来世に報いを与えることでしょう。

しかしだからと言って、絶望してしまってはいけません。

〈真実の御教え〉に帰依して、
〈我執〉という“妄念の草”を刈り、“根絶やし”に出来たならば、
やがて〈一切の劣情の想念〉や〈罪を犯すような欲望〉から離れることが出来るようになり、
ついには〈自分のため〉、〈人のため〉に十分な働きをすることができるようになるでしょう。


ここにひとつの例をお示しいたしましょう。

むかし、
カンダタ(白い睡蓮)という大盗賊がいました。

かれは自らの罪をまったく顧みることもなく死んでしまったので、
地獄へと堕ちてゆきます。
恐ろしい亡霊や殺人鬼の悪魔たちに日々、苦しめられて、
〈大いなる苦しみと大いなる悩みの淵〉へと沈められ続けるのです。

かれは〈7カルパ(302億4000万年)〉もの長きにわたって苦しみ続けましたが、
抜け出ることはできませんでした。


その時に、
〈ジャンブー樹の繁る大地〉に〈仏陀〉がお現れになられたのです。

“菩薩としての最期の人生”の中でついに
〈大覚(アヌッタラ・サムヤク・サムボーディ)〉の位への上昇を果たされたのです!

これこそまさに
“宇宙の始まりより前にも起こったことはなく、宇宙が滅んでからも起こることはないほどの出来事”でした。

〈六道輪廻の世界の千の集まりの、さらにその千の集まりの、さらにその千の集まりのありとあらゆる世界すべて〉が
〈仏陀の偉大なる光〉に照らされて輝き破られ、
〈決して光のさすはずもない地獄の苦しみの底の底〉にまで、
その〈尊い光〉は達したのでした。

それは、“一筋の細い糸のような光”ではありましたが、
〈カンダタはじめ地獄の亡者たち〉の上にも輝き渡ったのでした。

かれらの喜びようはたとえようもありません。
〈絶望〉しかなかったかれらが、
ふたたび自らに〈生命〉を取り戻し、
〈希望〉を胸に活動を始めたのでした。


カンダタは叫びます。
『“大いなる慈しみ、大いなる悲しみ”をお持ちの〈御仏〉よ!
願わくば、どうかわたくしにも憐れみをお垂れくださいませ!
わたしの苦悩は非常に大きなものです。
わたしは確かに罪を犯しました。
もしやり直せるのなら、
今度こそは〈正しい道〉を歩んでゆく心であります。
しかし
どうやってこの〈苦しみの世界〉から抜け出せばよいのかがわからないでいるのです。
〈世にも尊きお方〉よ、
願わくば、このわたくしを憐れみになってお救いくださいませ!』と。


〈仏陀〉はお考えになられます。

『たしかに、
“悪いおこないの者に悪い結果が訪れる”というのは〈“カルマの報い”という定理〉である。
“悪を働く者は、最後には滅ばなければならない”のだ。
しかし
〈最初から最後まで悪を貫き通して“悪の化身”となってしまうような者〉も、おりはしない。
そもそも、
そのような存在など“あり得ないもの”なのだから。

〈善いおこない〉こそが、〈生へとおもむく道〉である。
わたしたちの〈一つのことば、一つのおこない〉には終わりがあるが、
〈善いおこないの結果、進歩してゆくこと〉には終わりなどあるはずもない。
たとえ〈小さな一つの善〉であったとしても、
その内には新しい〈善のたね〉がある。
それは留まることなく育ち、成長してゆくであろう。

〈迷い苦しみの三つの世界〉を輪廻転生する間であっても、
〈自らの心を養うこと〉限りないものがあるはず。
最期には、
〈万(よろず)の悪〉を除き切って、
〈無上の覚り(ニルヴァーナ)の城〉へと至ることも出来るであろう』


ここへ思い至って、
〈御仏〉は
地獄の中で苦悩しているカンダタの熱烈なる望みを受け止めておっしゃられたのでした。


『カンダタよ。
汝はかつて、
“思いやりの優しさ”からおこないをしたことはなかったですか?
これがあれば、
汝にその報いが今また訪れて、汝自身をそこから救い出すことでしょう。

しかし見たところ汝は、
〈自らの罪のカルマにふさわしい報い〉を受けていて、
厳しく責め苦しまされているようです。
それらの苦しみによって〈我執〉からすっかり抜け出し、
“むさぼり・いかり・おろかさ”という〈恐ろしい三つの毒〉を洗い清めなければ、
たとえ〈永いカルパ〉を経ても、
〈苦しみからの解放〉へとたどり着くことは出来ないでしょう』


カンダタは黙ってしまいました。
かれは残酷な人間でしたので、
生まれついてから一つの善いことさえしたことがなかったので、
なんにも思いつかなかったのです。


しかし
〈真如の世界へ到り、真如の世界から戻って来たお方(タターガタ/仏陀)〉は
知らないことなどありませんでした。

この大盗賊の一生涯のおこないをすべて見てみると、
こういうことがあったのです。

かつて森の中で、
かれは小さな蜘蛛が地面でうごめいているのを見ました。
その時に、
『こんな小さな虫けら、害もないだろうから、踏み殺すのも残酷だな』
と一瞬、思ったのでした。


〈仏陀〉はカンダタの苦悩を見て〈慈悲の御心〉を起こされ、
“一本の蜘蛛の糸”をカンダタの元までお垂らしになります。
そしてその先で、
小さな蜘蛛にこう言わせたのです。

『この糸をたよりとして、昇って来なさい』と。

蜘蛛はすっと上にあがります。
カンダタはあわてて、力いっぱい蜘蛛の糸にすがりつきます。
そうすると、
不思議や不思議、糸は切れることもなく、次第に自分の体を宙へと吊り上げるではありませんか!


ところが途中から、
突然糸が震えて揺れます。

驚いて下の方を見ると、
かれの仲間である〈地獄の亡者たち〉が、
カンダタが吊りあげられるのを見て集まり、
自分も助かろうと昇り始めたのです!


カンダタはこれを見て言い知れぬ恐怖にとりつかれます。

『糸は細いのだ。
蜘蛛の糸だから、弱いだろう。
もともと、
吊り上げられている途中で切れてしまう危険もあるのだ。

それを、
あんなにも多くの者たちがすがりついているとなれば、
ますますそうなってしまう!』


ところがこの蜘蛛の糸はかれを吊り下げるには十分の強さがありました。
本当に不思議なことです。


カンダタは、
さっきまでは
“上へ行くこと”だけを心から望んでいたはずだったのに、
このことがあってからは、
下の方ばかりに心を奪われてしまいました。

〈御仏を信じ仰ぐ心〉さえ、
だんだんと乱れてきてしまったのです。

(こんな細い糸で、無数の人々を助けられるはずもない…!)と。

ひとたび疑いの念が生じると、
もはや恐怖の想いをとどめることが出来なくなってしまいます。

思わず
『来るな!来るな!この糸はわたしのものだ!』
と大声で絶叫するカンダタ。
その瞬間、
糸はたちまちにぷつりと切れて、
カンダタはまたもや奈落の底へと堕ちていったのでした」


・・・


「〈我執〉というみだりな想いが、
なおもカンダタの胸の内側にはわだかまっていたのです。

かれは
“上の方へと昇って〈仏法という正しい道〉の大地を踏みしめようと〈信心〉を定めること”の
〈不可思議なる力〉を
理解していなかったのです。

ほんとうに、
この〈信心〉という一念のか弱さは“蜘蛛の糸”のようだけれども、
果てしない数の生き物たちがすべて、
この“細き糸”にひかれてこそ、
〈苦しみから解き放たれる道〉へと到り着くのです。

だから、
“救われよう”とする生き物の数が多ければ多いほど、
『この細き糸こそ〈正しい道〉へと容易くたどり着く事が出来る方法なのだ』
と了解すればよかったのです。


ところが
ひとたび〈我執の念〉にとりつかれてしまって

『これはわたしのものだ。
この先にたどり着くであろう〈正しい道の福徳〉も、わたしひとりのものとするのだ』

などと想い誤ることがあれば、
“一縷の糸”はたちまちに切れてしまって
あなたも〈我執〉の巣へと戻り込んでしまうことでしょう。


つまりは、
〈我執の念〉こそが“滅び”そのものであり、
〈真理〉とは“生命”そのものなのです。

そもそも、
いったい〈地獄〉とはなんなのでしょうか?

〈地獄〉とは〈我執〉の別の呼び名であり、
〈すべてからの解放(ニルヴァーナ)〉とは〈正しい道を歩む生涯〉にほかならないのです」



僧侶の説法を聞き終わって、
瀕死の盗賊マハードゥータは静かに悲しんで言った。

「どうかわたしに蜘蛛の糸を手に取らせてください。
わたしは必ずや、
地獄の深い深い穴より抜け出してみせますから」
2014_01
17
(Fri)05:30

観音百みくじ、第四十九番の、いまだかつてないくわしい解説~!! 

やあやあ、おみくじ専門家のブログ主でっす!(←アホまるだし)
江戸時代にお寺や神社に広まった定番おみくじ「観音百籤」を、
前いた鎌倉長谷寺で、ぜーんぶ改訂しましたからね。

(いままで書いた過去記事は、カテゴリの「おみくじ関連」を参照ください。

で。
今回、ある方から過去に書いたおみくじ記事へ質問をいただきました。
こちらの記事の、この部分。


(以下、引用)

第四十九、吉。
正好中秋月・蟾蜍皎潔間・暗雲如何処・故々両相攀。


まさに好し、中秋の月。 

蟾蜍(=ここではお月様の別名)が白く清らかな間は
(つまり、雲間から秋の満月が出ている様子)
黒い雲もどこにあるというのか。
古なじみ同士、二人してよじ登る。

(中略)

冴えわたる月。そう、まるで秋の名月のような。
今までの問題がウソのように去って、すっかり心も晴れ渡る。
それは、昔からの大切な友に出会ったから。
今だけは、いやな事は忘れて心から楽しもうではないか。


でも実は、ちょっと気になることもあるんだよね。
これ、男女関係でも読めちゃうんだよね。
そうなると・・・
このおみくじを引いた人は、もしかしたら、日常を忘れちゃうような恋愛をしているのかも!?

(引用終わり)


さて。
まずはじめにひっかかるのは、
「蟾蜍(せんじょ)」でしょうか。
読めないよね~、書けないよね~、こんな文字。
意味は「ひきがえる」。「蟾蜍」そのままで、「ひきがえる」と読んでもいい。
古代中国で、月に住むのはウサギではなく、カエルだったらしいです。
ということは・・・
「月にかわって、お仕置きゲコ!」(←アホまるだし)

オホン。エヘン。

えー、なんでカエルかって言うと、カエルは満月のころにすんごい卵を産むらしく、
多産の象徴。“月の精”って考えられたらしい。
ウサギも、同様に多産。
両方、四つ足でぴょこぴょこ跳ねるです。(後代、月にいるのは“三つ足のカエル”という話も出てきますが。早口言葉の「みぴょこぴょこ」って、もしかしたら“三つ足”ってことかも!?)
カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ、
ウサギもぴょこぴょこ、むぴょこぴょこ。

一説には、「ウサギとカエルの追いかけっこで月が満ち欠けする」とか。
ウサギぴょこぴょこで新月から満月へ、
カエルぴょこぴょこで満月から新月へ。

こちらのブログ様がいろいろと詳しいです。
 また、こちらのブログ様はウサギについて書いておられます。 )
 

つづく「皎潔(こうけつ)」。
「皎(コウ・キョウ)」は、“白く光る きよい いさぎよい”。
「皎潔」で、“白くてけがれない”。もっぱら、月の光をたたえる言葉らしいです。
まず気になるのは、その次の「間」

蟾蜍皎潔間(せんじょ、こうけつのあいだ)

お月さまがまっ白で清らかな“間は”

わざわざ、期間を限定してるでありんす。

中秋の名月は、すばらしいッスよ。ほんとうに。
でも、考えてみてくださいよ。

月は満ち欠けがつきもの。
移ろいゆくものの代表。
さらには、別名「太陰」。(これは、「太陽」の対義語。いわゆる物質としての恒星「太陽」というよりは、万物の陽の極み・源としての「太陽」。その対極として、万物の陰の極み・源として考えられたのが、「太陰」すなわち、「お月さま」。)
“大いなる女性性の象徴”でもありんす。
女性は美しい。
女性は生命のみなもと。
しかし、女性は移り気で(もちろん、男性も移り気でしょうが)
刻一刻と、その姿を変えてしまう。
(ルナティックは狂気という意味ですしね。)

もう一度、書きましょう。


蟾蜍皎潔間

お月さまがまっ白で清らかな“間は”



どうも、美女と巡り合っての、心のときめきを歌っている、ような気がするでありんす。

そうなると、一句目も


正好中秋月

まさに好し、中秋の月



ほんま、ええなあ。まん丸のお月さんみたいなべっぴんさん。



みたいにも、読めるような。


あのー、別にブログ主がふだんそんなことばっかり考えているわけやおまへんで。
どうも、そう解釈できる、というか、そういうニュアンスを含ませている匂いを感じる、というか。

「中秋の月」って、
このおみくじは、お正月じゃなくて、秋にひくべき?
そうじゃないよね。お月さまはもちろんいつでもきれいなんやけど、
名月中の名月、いっちばんきれいなお月さまといえば、
そりゃあ、アンタ、いうまでもない。
「中秋の名月」やよねえ。

そうです。おみくじのなかで珍しく、わざわざ季節を限定している。その背後には、独特のメタファーがある、はず。


第三句、
暗雲如何処(あんうん、いずくのところぞ)

黒い雲もどこにあるというのか。


わざわざ、「え?暗い雲?そんなん、どこにあんの??」
と、、うそぶいていらっしゃる。
いや、あったんですよ。暗い雲が。不安な気持ち、だけでなく、客観的にもマズイ状況、が。
それが、ほんの束の間だけ、どこかに行った。とも、受け取れる。

二句目と三句目をつなげて読むと、そう思えませんか?


蟾蜍皎潔間 暗雲如何処
月が白く清らかな間は
暗い雲など、どこにあるというのか。


月の美しさに夢中になって、イヤなことぜーんぶ、忘れちまっただよ。なう。

からの~、四句目。


故々両相攀(ここふたつながらあいはんず)


これ、すっごくわかんなかったんよ。
もう、誰かに聞きたいくらい、意味わからんかった。

「故」って、ふつう読むなら“ゆえに”でしょ!?
「ダカラ」ってこと。
でも、それが繰り返してある。
「故々」って、なによ!?
(「故故し(ゆえゆえ・し) という古語があるけど、
意味は“何かわけがありそうである。普通でない。趣がありすぐれている”で、なんか違う。それに、あくまでおみくじの方は漢詩だしね。日本の古語じゃあない。 )
で、漢和辞典、穴のあくほど何度も見て、
いや、五、六冊、漢和辞典に穴をあけちゃって、ダメにしちゃったなァ。(と、ムダにうそぶく。)
ようやく、みつけたッスよ!
「ふるなじみ」という意味を!つまり、名詞としての意味を。名詞なら、くりかえしても問題ないもんね。
これで、「故々」“ふるなじみ同士”、「両」“ふたり”、「相」“ともに”と読める、読める。

この漢詩の、一番の問題は…
最後の、「攀(ハン)」という字!!
辞書を引くと、“よじのぼる”。なんだ、そりゃア!!??

それでまあ、さる先生の解釈にしたがって、
“月でウサギとカエルが、なかよく桂の木に、よじのぼって遊んでいる”
という線でご紹介してみたのが、以前にアップした記事でやんす。
月の伝説、知ってるだろ?前提のヤツ。

もちろん、そういうメルヒェン的な解釈、というか理解でもええんやろけど…。


気になるのは、やっぱり「攀」の一字!
意味を書き連ねてみましょうか。
“1 よじる よじのぼる  2 すがる つかまる とりつく  たよる したう 3ひく(援)”

なんか、ね。すんごい絡み合って、抱き合ってるような気がするんです。
このあまり普段使わない「攀」ってことばには、
個人的には『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の、この歌のセンスを思い出します。

美女(びんじょう)打ち見れば 一本葛(いっぽんかずら)へ成(な)りなばやとぞ思う 本(もと)より末(すえ)まで 縒(よ)らればや 切るとも
(べっぴんさんをパッと見てしもうたら、一本の蔓(からみあったつる植物)になりたいなあ、なーんて思ってまうわ。頭のてっぺんから足の先まで、ぐるぐるぐるーって巻きついて離れんで、引きちぎれるくらい(抱きしめたくなるわ))    
  

伝統的な子孫繁栄のモチーフ
「藤に松」
(「松」を男性、「藤」を女性にたとえて、松に藤がからみつく=男と女が抱き合う→子だくさん、子孫繁栄)
というのも、なんとなく思い出されます。



この詩のなかには、一言も“桂の木”なんてでてきません。
「蟾蜍」は出てくるけど、それは“カエル”という意味ではなく、単なる「月」の異名。
くりかえし「月」という言葉を使うのを避けているだけでなく、語調も整えているんでしょうね。
“せんじょ、こうけつのあいだ”って、声に出して読むだけでかっこええもんね。
で、とうぜん“ウサギ”も出てきまへん。
出てくるのは、「故々」だけ。だから、“よじのぼる”のも、「故々」だけでショ!?じゃあ、なにに??
もう、「両相」つまり、“ふたりで、おたがいに”しか考えられないんちゃいます?フツーに読んで。


と、いうわけで。
この漢詩をありのままに読むと、こういう真意が隠されているのではないか、と思うんでありんす。

おお、まるで中秋の名月のように美しいお方よ!
あなたの清らかな輝きに照らされて、
私は一切のわずらわしい事を忘れてしまった。
昔からの親しい者同士(のように)、お互いをかき抱きあおうぞ!


別に、本当に懐かしい幼馴染同士の再会でもいいんですけどね。
なんか、現実世界をうっかり忘れてしまったような、熱い恋の火花が散っているような気がするんでありんす。(不倫も含めて。)

あ、別にブログ主がそういう願望がある、とか、そんなことばかり考えている、とかじゃなくって。
おみくじ百あるなかには、そういう恋愛の激しい火花を読むものがひとつぐらいあっても不自然じゃないのかな、って。


もちろん、このおみくじを引いたからって、色恋沙汰に押し込んで理解する必要はありませんので、
“迷いがなくなった、道が開けた”と解釈したり、
“誰かと久々に会う”程度に理解したりしても、ぜんぜんかまわないと思います。

おみくじは、ある意味、運気の上がり下がりを教えてくれるひとつのバロメーターに過ぎませんので、
一から十まであてはめる必要もなく、
場合によってはトンチンカンのお門違いをひいてしまうこともありますんで、
そのへんはテキトーに割り引いて、
もしもなにか思い当たる節があるんなら、ご参考になさってください、ってなことで。
2014_01
14
(Tue)06:35

ちだいさんの本、『食べる?』の紹介ー!

食べる?-食品セシウム測定データ745

ええっと、今回は宗教とはかかわらない本のご紹介です。
でも、“いのち”に関わりますんで、大事なことでやんす。

ちだいさんは、食品の放射能汚染についてこつこつと、楽しく検査しておられるエロカッコイイお方。
氏のブログ「チダイズム」

そしてこの本は、厚生省のデータに基づいた、いろんな食品のセシウム汚染に関するデータ集。
あ、もちろんただのデータの羅列ではなく、
わかりやすく楽しい(そして考えさせられる)解説つき
ですよ!

とにかく、あまり詳しくはいいませんが
これから私たち日本人が向き合っていかねばならない問題を正面から取り上げた本です。

「正しく見る」。
仏教の八正道の第一、「正見」にも通じるでありんす。


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